【第1回/ゲイカルチャーの未来】「バディ」と「新宿ルミエール」、二つのゲイアイコンを生み出した偉人/平井孝インタビュー

昭和から平成、そして令和にかけて50年近く、ゲイメディアの主流として様々な情報や出会いを発信し続けてきた商業ゲイ雑誌。昨年1月末に不動の人気を博した『バディ』が休刊し、今年4月には最後の砦であった『サムソン』も休刊。日本の商業ゲイ雑誌の歴史に幕を下ろした。

時代を遡ること26年前、バディが創刊された頃はまだ、一般のゲイ読者が雑誌に顔出しで登場する時代ではなく、当事者たちにとってもゲイコミュニティはミステリアスで、知らないことだらけだった。そして、現在はインターネットが主流となりカミングアウトする人が増え、SNSや動画配信でもゲイ個人が自分の個性を活かして大きな影響を生み出している。

「ゲイメディア」=「ゲイ雑誌」という単純で分かりやすかった時代が終わり、商業ベースのマスメディアから、個人が情報を発信するインフルエンサーへと時代が移り行く過渡期の今、伝説的ゲイ雑誌を創った4人が語るこれからを担うゲイに託す未来への希望。そして、日本のLGBT文化を支え続ける7人の瞳に映るゲイカルチャーの未来を届ける全11回のインタビュー特集をお届け。

第1回目となる今回は、新世代のゲイ雑誌として90年代ゲイブームに誕生し、日本のゲイコミュニティの成長に大きな影響をもたらし続けてきた月刊『バディ』。なぜ、既存のゲイ雑誌があったのに新たな雑誌を作ろうと考えたのか。そして誕生から休刊までの25年について何を思うのか。長年、バディの経営者として時代を見つめてきたテラ出版代表取締役社長・平井孝氏が語るバディへの想いとは──

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──「バディ」は、ゲイ企業が作った自分たちが売りたい雑誌。

バディはゲイ雑誌に広告を出す側だった当時のビデオメーカーやゲイショップが13社集まって、自分たちの雑誌を作ろう、自分たちで売ろうという発想で創刊したの。当時はバブル景気がまだ残っていて、ビデオメーカーはヒット作一本があればビルが建つ時代だったし、それを売るゲイショップも賑わっていたのでありがたいことに資金はあったけれど、それ以上に新しいものを作るというのは大きな労力と手間と時間がかかるもの。一般書店で扱ってもらうためには雑誌コードが必要で、他の出版社に協力してもらって取次店のトーハンや日販に通い詰めたりしてね。

新しい雑誌というのは当然、先が読めないから不安やストレスも大きい。僕たち経営者は「こういうアイデアを入れたい」という意見は出せても、編集者ではないでしょう。だから、それぞれの人脈で一般出版社で編集の経験がある人を呼んで、創刊準備号を出すまでに長いこと編集会議を重ねたわけ。当初、編集長として呼ばれていた人はみんなの意見をまとめるほどの器量がなかったので創刊準備号を発行する前に編集から抜けてしまったり、途中から創刊に向けた編集会議に参加したグラちゃん(小倉東さん)が出してくる新しいアイデアに目を白黒させたり、真面目に雑誌作りのセオリーをみんなに伝えて編集作業を整えてくれる長谷川君がいたりして、紆余曲折の末、少しずつ形が見えてきたという感じだったの。いろんな要素を詰め込んで、誰もが楽しめる雑誌を目指したの。

──多額の資金と全国取材で成長をした90年代という黄金期。

作り手側が楽しんで作らなければ内容はつまらなくなるし、投稿される情報だけを待っていても地方に住むゲイの人のリアルを知ることもできない。そういう気持ちもあって「ウォーキンバディ」っていう取材ツアーを企画したんです。それこそ北海道から沖縄まで全国の都市に出張して、ご当地のゲイの人に登場してもらったり、ゲイバーやゲイショップ、ハッテン場を取材して、それを特集として紹介していく。結局、全国を制覇するのに何年もかかったし、それこそ今では考えられないほどの予算をかけたのだけれど、その苦労があったからそれまでの既存のどのゲイ雑誌よりも多くの全国のゲイバーやハッテン場の広告が毎月掲載されて、ビデオメーカーやゲイショップの新作情報も多いから、結果的に広告そのものがゲイスポットとビデオの最新カタログの役割を果たしていたの。

もちろんその他にも、出会いのための文通欄(通信欄)があって、ビデオの新作情報があって、特集では好きな芸能人アンケートや最新トレンド情報があって、作家さんによる一般雑誌レベルの漫画や小説もあって。だから、バディはナンバーワンと呼ばれる雑誌にまで成長できたのだと思う。
時代に合わせて、それまでの雑誌の枠を超えたこともたくさんしてきたと思います。コミック本を出したり、ビデオを出したり、読者参加の合コンイベントを開催したり。新宿二丁目でゲイクラブを経営したり、レズビアン雑誌を出したりもしたわね。

『東京国際レズビアン&ゲイ映画祭』(現・レインボーリール東京)や、東京だけではなく札幌や名古屋、大阪などのレインボーパレードにも協賛・ブース出展していたし、参加することに意義があったから、売り上げは二の次という考えだった。90年代から00年代にかけて次々と誕生した多くのLGBTコミュニティと手を取り合って成長することができたと思う。札幌なんて、毎年参加するものだから、出張の拠点用にマンションまで借りていたくらいだもの(笑)。

──ゲイの当たり前を変えた!? マツコ・デラックスが残した大きな功績。

ありがたいことに、バディは若くて才能のある編集者がたくさん集まった雑誌でもあったの。それこそグラちゃんもそうだし、トレンドに敏感な斎藤靖紀(ブルボンヌ)がいて、博識でエネルギッシュなマツコ・デラックスがいて。
マツコには有言実行できる行動力があったので、それまでイラストだったゲイ雑誌の表紙にリアル世代のゲイモデルを起用したり、街で声をかけて一般読者を誌面に登場させるなど、とても大きな功績を残してくれたことには感謝しているの。

だから僕はマツコをすごく買っていて、それはもう、本人にとっては迷惑だったとは思うけれど、ぎゃーぎゃー騒いでまで僕ができることは手取り足取り教えたし、あちこちに引っ張り回すようになったのね。僕がここまで気にかけた相手は生涯の中でもマツコが最後なの。喧嘩したり、意見をぶつけ合ったり、それこそ戦場のような職場だったからいい思い出とは言い難いけれど(笑)、その頃が一番楽しかったと思う。だから、マツコがバディを卒業してからも、地方出張には必ず呼んだし、マツコもスケジュールを合わせてくれた。僕はあまり自分の本心を他人には漏らさないんだけれど、たまにはマツコの前では言うことができたし、そんな時、いつもは騒がしいマツコだったけれど、ただ聞いてくれていたのよね。

──ゲイ雑誌の厚みが各出版社のプライドだった全盛期。

全盛期のバディは次第にページが増えていって、そのままだと製本できないほど厚くなってしまうので紙を薄くして、なんとか重さが一キロを超えないようにしていたの。ところが、時代は移り変わっていくもので、インターネットが普及した影響で投稿が減ったことを機に文通欄(通信欄)をすっぱり止めたのだけれど、不況でゲイバーがどんどんなくなって広告掲載が減っていた時期でもあった。

新しいことを散々してきたバディだったけど、一旦厚くなったのを薄くすれば「ページが減った」と思われてしまう。それに、A5サイズで辞書のように厚い雑誌というスタイルは過去のゲイ雑誌のフォーマットをアレンジしたものだったのだけれど、もちろんこれには理由があってね。昔のゲイ雑誌は町の片隅の小さな書店のアダルトコーナーの棚に並べられていて、背表紙だけが見えている売り方が主流だった。平積みしているのはゲイショップくらいだったと思う。だから棚で大きな文字を目立たせるには余計に雑誌の厚みが重要でもあった。つまり、薄くなると売り上げに大きく影響してしまうと考えて、今度は紙をちょっと厚くして体裁を保とうとしたこともあったわけ。

──度重なるリニューアル。バディを次世代に任せようと思ったきっかけ。

創業当時は僕にも「こうしていきたい」という考えがあって、いろんな人と衝突もしたし、10年は頑張っていたと思う。でも、年を重ねていくと情熱やバイタリティは徐々にすり減っていくし、感性も衰えていくの。

25年っていうのはとても長くて、当時20歳だった人が今は45歳を迎えるわけでしょう。当然時代も変わっていくよね。僕はインターネットのことはほとんど分からないし、今の世代が好きなものを聞いても理解できないことが増えてくる。
ある時期までは毎月、何を作るのか編集会議にも参加していたし、使用する写真もみんなで並べて意見を出し合ったりしていたけど、初期の編集部員がバディを卒業して巣立ったくらいかな、新しい世代の編集の子に入れ替わったくらいで、バディを任せてしまおうと思うようになったの。

いきなり、僕が誌面作りに一切口を出さなくなったというわけではなくて、一番のきっかけはちょうど10年前の2009年にバディのサイズが大きくなったことだったと思う。
さっきも話したように、バディがいきなり薄くなるというのは創刊してからの最大の冒険だったし、大きくなるということは地方の一般書店での売り方も変わるということ。下手をしたら売り場に並ばずに返本されることもありえてしまうでしょう。ところが、編集部員のほとんどがバディを大きくすることに賛成していて「A5サイズというのがそもそも古い」っていう言葉を聞いて、目からウロコよね。結果的には僕も大きくすることにかけてみよう、と気持ちが動いたんです。

──突然の休刊と若い世代には失敗を恐れて欲しくない想い。

時代の流れで今まであったものがなくなったり、変わってしまうのは寂しいことよね。ただ、バディが創刊するよりもう少し前かな、ゲイ雑誌を万引きして見つかった高校生の男の子が自殺する事件があって。お金が惜しくて盗んだのではなくて、ゲイ雑誌を買う勇気がなかっただけだと思うの。今の時代に生まれていたら、ゲイアプリやSNSがあるからそんな悲劇は起きなかったかもしれない。

バディは編集部スタッフたちの目指す今後のあり方や雑誌不況の時代、これからのゲイライフの多様化に鑑みて、25年の歴史に幕を閉じることを選んだのだけど、それも正しい選択だったのだと、今は思えるようになりました。

僕は新宿二丁目でゲイショップをオープンしてから、失敗もたくさん経験したし、長いことゲイ文化の移り変わりを目の当たりにしてきたけれど、時代を変えていくのは常に新しい世代だったと思う。だからこそ、これからの若い人には、失敗を恐れずいろんなことにチャレンジしていっていただきたいな、と思います。

■ 平井 孝/ひらい たかし
1970年代後半に新宿二丁目にゲイショップを立ち上げ、1986年に移転、店名を変更して新宿二丁目のランドマークとして知られる現在の『新宿ルミエール』をオープン。1993年の創刊準備号から2019年1月までの25年間、『バディ』(テラ出版)の代表取締役社長を務める。

取材・インタビュー/みさおはるき
編集/村上ひろし
写真/EISUKE
記事制作/newTOKYO

※このインタビューは、月刊バディ2019年1月号(2018年11月21日発行)に掲載された「ゲイコミュニティの未来へ/FUTURE:From GAY MAGAZINE」を再編集してお届けしております。

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