命ある限り思いを紡ぐ 「家族頼む」 父の言葉胸に

「必死に生きてきたのよ」と父龍風さんの遺影に語りかける信子さん=長崎市の自宅

 15歳で父に家族を託された。長崎市鳴滝2丁目の伊達木信子さん(90)は「あの日」を奇跡的に生き延び、戦後の被爆者差別にあらがいながら、必死に生きてきた。原爆に命脈を奪われた優しかった父や友人の笑顔。「核は人類を破滅させるだけ。もう争わないで」。サイレンが鳴り響いた9日午前11時2分。家族の思い出が詰まった築90年の木造家屋で一人、小さく背中を丸め、そう祈った。
 75年前の8月6日、広島に原爆が投下。家族が寝静まった後、父龍風(りょうふう)さん=当時(45)=から部屋に呼ばれた。三菱長崎兵器製作所の給与課長をしていた父は、周りに漏れないよう声を潜めた。
 「広島に新型爆弾が落とされた。長崎もいずれ狙われるかもしれない。日本にはもう船も飛行機も戦える戦力はない」
 母は“箱入り娘”で心配性。だから、父は5人きょうだいの長女だった信子さんを頼り、託した。
 「自分が助からなかったときは家族を頼む」
 15歳の少女が抱えるにはあまりに重く、言葉が返せなかった。ただ、背筋が凍るような思いがした。
 父の憂慮は間もなく、現実のものとなる。
 当時、県立長崎高等女学校4年生。学徒報国隊として同兵器製作所茂里町工場(爆心地から1.2キロ)2階にあった「仕上工場」にいた。1階の「機械工場」には魚雷が並んでいた。
 午前11時2分。直前まで一緒に談笑していた友人の背後にあった窓から朱色の強い光が差し込んだ。爆音と爆風で工場全体がガタガタと揺さぶられる。間もなく、2階の床が真ん中から「折れた」。作業台の脇に伏せていた体は、ありとあらゆるものと一緒に、下に引きずり込まれていく。死を覚悟した。
 作業台の脚と脚の間に体が入り、奇跡的に大きな機械類の下敷きにならずにすんだ。だが、無数の部品や道具に埋もれ、身動きが取れない。誰かが抜け出し、自分の周りが少し緩んだ隙に必死にもがき脱出した。手の爪は血だらけで感覚はない。頭から血が流れ、全身が油にまみれていた。
 父は、給与課の重要部門の疎開先だった城山国民学校(爆心地から0.5キロ)で原爆に遭った。コンクリート校舎の下敷きになり、眉間が陥没し、肺は破裂。十分な治療が受けられないまま、15日に息を引き取った。
 スポーツマンでおしゃれだった父。酒もたばこも口にせず、家族思いだった。「みんなを路頭には迷わせない。大丈夫だから」。あの夜、父からそう聞いていた。お金は残してくれたが、戦後は物価が高騰し、預金封鎖も起きた。父の革ジャンに三つボタンの特注の靴、母の着物、自身のピアノ…。その日その日を生きるため、大切なものは全て食べ物に換わった。
 苦しむ父に何もできなかった後悔から医学の道を目指し、東京の大学を受験した。だが被爆者と知れた途端、面接官の態度が一変。「そんな体で勉強ができるの」。冷たく言い放たれ、入学を拒否された。県外男性との縁談は「被爆者だから」との理由で破談になった。
 県庁に入庁し、29歳で結婚。2人の子どもに恵まれた。しかし、次男に大病が見つかると、近所から「被爆したあなたのせい」と言われ、自分を責め続けた。
 よわいを重ね、気が付けば父の倍を生きてきた。「(父は)『大丈夫』って言ってたけど本当に大変だった。必死に生きてきたのよ」。そう言って、父の遺影に目を落とした。時代に翻弄(ほんろう)され、辛苦を背負いながら生きてきた90年-。「私はあと何年生きられるか分からない。だから、争いのない世界をつくるのはあなたたちよ」。そんな思いを後世に託している。


© 株式会社長崎新聞社