毛利家にとっての重要な「港」 西播磨歴史絵巻(18)「『中国行程記』から(7)坂越」

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兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第18回のテーマは「『中国行程記』から(7)坂越 」です。

萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの7回目です。『行程記』は萩藩の絵図方・有馬喜惣太が綿密な取材を積み重ねた苦心の作なのですが、現代的尺度で見ると、いい加減な所も散見されます。しかし、よく見ると、あくまで萩藩の藩主・毛利氏にとって重要な事柄を詳しく比較的正確に記している一方、重要度の低い情報は「ほんの参考程度」と位置付けているらしいと徐々に気付きます。

というのは「赤穂城の櫓の数」などは、萩藩にとってはどうでもいい部類に属するため、あまりきちんとカウントしなかった結果、実数より少ない結果となったと思われます。一般的観光案内なら詳しく書かれるはずの赤穂城下の書き込み量そのものが少ないのが、その証しでしょう。

一方、赤穂の中心部から東へ5キロほど離れた坂越の港については、驚くほどの情報を盛り込んでいるからです。当時、坂越は毛利家にとってそれほど重要な港だったようですが、既に海運基地としての役目を終えた現在からは、往時の繁栄が想像しにくくなっています。

ただ逆に、近代化も都市化もされなかったがゆえに、絵図に描かれた江戸中期の地形やたたずまいが約250年の時を超えて、そのまま現代に語り掛けてくれます。坂越については「伝統的港町・坂越浦」として2019年5月に一度取り上げていますので、ここではなるべく重複しないよう角度を変えてお話いたします。

絵図には、港の前に堂々と生島が描かれ、港から西へ千種川に抜ける大道沿いに旧坂越浦会所や大名の定宿の本陣・奥藤家があります。さらに小さな峠を越えると光明山妙道寺が今もかわらずそのまま残っています。

奥藤家は現在「忠臣蔵」や「乙女」ブランドの酒造メーカーとなっていますが、古くは大庄屋や船手庄屋も兼ね、回船問屋・塩田・電灯・金融など幅広い事業を展開した、坂越の大企業家でした。現在の建物は江戸前期の寛文年間(1661~73)に建てられた、入り母屋造りの堂々たるもので、その酒蔵の一角に「酒造郷土館」があり、奥藤家と酒造の歴史資料が展示されています。

かつてこの港町には、人馬問屋や高瀬宿・船宿などが30軒近くあり、17世紀後半から先の奥藤家をはじめ大西家・岩崎家・渋谷家などの回船業が全盛を迎え、船も大型31隻、小型15隻を持っていました。赤穂の特産である塩回船の積み出し港の機能も果たしました。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年8月4日放送回より