竹内まりやと中森明菜、解釈が分かれた「駅」の歌詞を深読み解説 <まりや篇> 1987年 8月12日 竹内まりやのアルバム「REQUEST」がリリースされた日

『竹内まりやと中森明菜、解釈が分かれた「駅」の歌詞を深読み解説 <明菜篇>』からのつづき

女性の弱さに目線を合わせた中森明菜バージョン

「駅」の物語に対して、中森明菜は “愛執(あいしゅう)” という女性の弱さに目線を合わせたのだろう。彼のことを忘れられない心が邪魔をして、ときめきが薄れてしまう日々の侘しさ。それは彼女自身が認めたくなかった “私だけが彼を愛していた” という事実。そう読み取った中森明菜は、その憂いを帯びた愁傷を吐息のような歌声で表現したのだ。

愛執染着(あいしゅうぜんちゃく:異性に対する強い性愛の欲望にかられること)にとらわれた女性… 僕は、こんな風に想像を巡らせた中森明菜の繊細な心に至極感動した。

別れたことで、今まで以上に彼の存在が心を支配してしまう… 彼女の傍らには常に透明な彼がいて、事あるごとに顔を覗かせてくる… そんな失恋を引きずっているときのやるせない気持ちが僕にはよくわかる。ところが、これは竹内まりやが思い描いた世界とは全く違うものだったのだ。

竹内まりや目線で深読みスタート!

ここからは、「駅」の歌詞から竹内まりや本人が描いた世界を深読みしてみる。それは中森明菜が思いを馳せた世界と並行するパラレルワールドで、同じシチュエーションで起こった全く別の出来事なのだ。

 二年の時が 変えたものは
 彼のまなざしと 私のこの髪

後にある「うつむく横顔」という歌詞から、彼の伏し目がちのまなざしに、付き合っていたころの生気が感じられないことがわかる。“まぎれもなく昔愛してたあの人なのね?” と、歌詞を疑問形で捉えれば、それは見間違うほどに変わり果てた彼の姿だったのだろう。彼女は “2年という月日はこんなにも人を変えるものだろうか…” と感じたはずだ。既に彼女は髪を切って気持ちを切り替え、新しい自分を謳歌し始めているのだから。

 あなたがいなくても こうして
 元気で暮らしていることを
 さり気なく 告げたかったのに……

本当は、久しぶりに会った彼に “私はいま毎日をとても楽しく過ごしているわ…” なんて声をかけたかったに違いない。ただ、彼の面持ちから何かを察してしまい、一歩引いて隣の車両から様子を伺うことにする。

 それぞれに待つ人のもとへ
 戻ってゆくのね 気づきもせずに

愛していたときの輝きを失った彼。その姿を目の当たりにした哀れみに、思わず涙があふれそうになる彼女。彼をこんな風にしてしまったのは、ふたりの関係を清算した私の責任だ。彼は、このことにより関係が冷めきってしまった妻のもとへ帰るしかない。幸せになった私に気づくこともなく…。

 今になってあなたの気持ち
 初めてわかるの 痛いほど
 私だけ 愛してたことも

彼女は悟ってしまった。妻という存在がありながら、彼は “私だけを愛してしまった” のだ。あの頃の私は随分と彼を振り回していた。どんなわがままだって彼は受け入れてくれた。でも私は不倫の先にある未来を憂い、彼を切り捨てる決断をした。どんなに尽くしてくれても彼には家庭があるのだから。別れとは、私の最後のわがままであり優しさでもあった。いまでもそれが正解だったかどうかわからない。ただ、あのときは、私の世界を生きてゆくためにそうするしかなかったのだ――

ここまでの考察から間奏後に迫る最後のシーンが、中森明菜の想像した世界と全く別の世界として見えてくる。

まりやバージョンは、凛とした女性にフォーカス

 ラッシュの 人波にのまれて
 消えてゆく 後ろ姿が
 やけに哀しく 心に残る
 改札口を出る頃には
 雨もやみかけた この街に
 ありふれた夜がやって来る

「ラッシュの人波」と「ありふれた夜」は、日常と平凡を意味している。代わり映えのしない日常に没してゆく彼の後ろ姿に気まずさを感じるのは、別れを切り出して終わりにしてしまった彼女のなかに懺悔の気持ちがあるからだ。だから “やけに哀しい” のだ。

彼女は追いすがる彼を振り払い「家庭を大切にして… 妻の元へ帰って」と諭したけれど、それは優しさでもなんでもなく、彼を過去へ捨ておいた酷い仕打ちに他ならない。その思いと決別するための言葉が “改札口” だ。「改札口を出る頃には」という歌詞は、もう2度と彼のことを思い出さないと決めた境界線なのだ。

“雨” とは、過去の楽しかった日々を洗い流す比喩であり、 “街” とは生活のことだ。だから「雨もやみかけた この街に」という表現は、彼に対する憐れみの気持ちであると同時に、彼の未来に希望を投げかけた祈りの一節でもあるだろう。

彼女は、電車から降りずに車窓から見送ったと思う。彼は人波に流されながら階段を降りて改札口へ向かって行くはずだ。そこに至るまでの緩やかな時間を想像した彼女は、決別の余韻に浸るため瞳をとじて電車に身を委ねる。その回想こそがエンディングの「ラララ…」なのだ。フェードアウトするまでの追憶は、きっと憐憫の情に比例している。

竹内まりやの1本芯を通した力強い歌声から想像すると、男女の柵(しがらみ)を振り切って成長した女性の物語としか思えなくなってくる。もちろんその凛とした女性をイメージして曲を作ったはずだ。

中森明菜と竹内まりや、どちらが正解という話ではない

結局どちらが正解という話ではない。竹内まりやの作詞・作曲だから、中森明菜の解釈は異となるけれど、“それもある!” と思わせる世界観を表現した中森明菜も流石のひと言に尽きる。

この曲は、偶然見かけた彼の姿を目で追った彼女の心象風景である。それゆえ一度も言葉を発する場面が出てこない。まだ癒えていない過去の記憶に触れるとき、誰だってその傷口から痛みが走るはずだ。だから僕は、聴く人の心の健康状態によって、中森明菜のイメージと竹内まりやのイメージのどちらにでもなると思っている。恋と愛をどう捉えるか… その人の生き方と人生がイメージを左右する要因にもなるだろうし。

僕はこう思う。恋とは “叶うことのない純粋な孤独” だけれど、愛とは “日常に溶け込んだ目に見えない約束” なのだと。

ちなみにこの物語は、2013年3月15日で閉鎖された東急東横線渋谷駅の地上2階にあったホームを舞台にしている。その日、85年間使用されてきたホームを惜しんだ人々が、次々に渋谷駅を訪れたという。

これは、翌々日放送された山下達郎のFM番組で「あの駅が移設されて寂しいから…」という、竹内まりや本人から届いたリクエストに対し、「駅」を流したことで世間が知ることとなった。竹内まりや自身も、かつてこの渋谷駅を通学で使用していたという。思い出は、いつだって時空を超えて心に舞い戻るのだ。

駅とは、人の思いが交差して過ぎ去ってゆく人生の分岐点のようでもある。渋谷駅もJR線や地下鉄、私鉄などが行き交うターミナル駅として、出会いや別れなどそれぞれのドラマを日々眺めてきたことだろう。今も開発が進んでいる渋谷駅。その表情は日々移り変わってゆく。そして今日もまた、そこかしこのホームで誰かのドラマを後押ししているに違いない。

カタリベ: ミチュルル©︎たかはしみさお

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