ソ連の歴史を塗り変えた!モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル 1989年 8月12日 ロックフェスティバル「モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル」がレニングラード・スタジアムで開催された日

まさに画期的! ソビエト連邦で開催されたロックフェス

今から31年前の8月12日、当時のソビエト連邦の首都モスクワにおいて、地球上で最も熱いライヴパフォーマンスが繰り広げられた。

ボン・ジョヴィ、スコーピオンズ、オジー・オズボーン、モトリー・クルー、スキッド・ロウ、シンデレラに加え、地元ソ連のゴーリキー・パーク等、HM/HRシーンにおける最高のアーティスト達が、一堂に集結した。

会場となったレニングラード・スタジアムは、1980年に社会主義国家で初めて開催された、モスクワオリンピックのメイン会場だった。モスクワ五輪といえば、当時の冷戦構造の影響で、日本を含む西側諸国の多くがボイコットを余儀なくされた。その悲劇は今も記憶に刻まれている。

そんな東西冷戦の歴史を象徴する場所で、西側文化の象徴といえるロック、しかもHM/HRのフェスティバルである『モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル』が開かれたのは、まさに画期的な事象だった。

当時のソ連はゴルバチョフ政権によるペレストロイカ、グラスノスチの改革が進んでいる最中だった。そこに音楽文化に対しても民主化の気運が高まり、後押しを得られたことがフェスティバル実現への土台となった。

きっかけは、大物敏腕マネージャー ドグ・マギーの社会奉仕活動

この『モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル』を企画、プロデュースした西側の最重要人物が、ボン・ジョヴィ、モトリー・クルーらを手がけたことでロックファンに知られる大物敏腕マネージャー、ドグ・マギーだ。

ドグは、麻薬密売への関与で1988年に逮捕され、判決で長期に渡る社会奉仕活動を言い渡されていた。ちょうどその頃、彼はのちにフェスのソ連側での主催者となるスタス・ナミンと出会う。スタスは、自身がマネージャーを務めるゴーリキー・パークを売り込むべく、ドグの元に訪れていた。

この出会いをきっかけに、ドグは社会奉仕のアイデアを膨らませていく。若者の薬物やアルコール乱用の問題は、ソ連においても深刻化していた。そこでドグは、自らがマネジメントする有名バンドを中心としたチャリティーロックコンサートをソ連で開催することで、この社会問題を世界に提起しようと考えたのだ。

かくして、様々なファクターが偶然に重なり、ロック史上に残る奇跡のフェスが実現する運びとなった。

ドグはフェスのために財団(メイク・ア・ディファレンス・ファンデーション)を設立し、フェスにまつわる収益の全ては財団に寄付された。その名称を冠したチャリティーCD(ドラッグやアルコールで命を失った著名アーティスト達の楽曲をフェスの出演バンドらがカヴァー)も、フェス後に発売された。

ヘッドライナーはボン・ジョヴィ、MTVが衛星生放送で世界配信!

フェス当日、レニングラード・スタジアムの上空は天気に恵まれた。というのも、ソ連空軍が上空の雲に大量の薬剤を投入し雲を蹴散らしたというのだから、スケールの大きさに驚かされる。

フェスの模様は完全収録され、放送権を得たMTVが衛星生放送を通じて世界中に配信したことで、コンサート映像はもちろん、オフステージ等での記録も多数残っており、映像作品としても発売された。

ドキュメンタリー映像では、全バンドのメンバーが集まり、チャーター機でソ連入りする様子から見ることができる。マイクを向けられたどのバンドのメンバーも、ソ連初の大規模ロックフェスを前に、一様に高揚している様子が伺える。出演者たちが、どれほど名誉な気持ちを抱いていたのか、想像に難くない。

MCに招かれて大ステージに登場したシンデレラは、ブルージーなハードロックで会場をヒートアップさせていく。ソ連の民族楽器、バラライカを模したギターが印象的な地元のゴーリキー・パークは、ソ連のバンドでも西側にアピールできる個性的なハードロックを創れることを証明した。

衝撃のデビューから間も無く、最も勢いに溢れていたスキッド・ロウは、HM/HRならではの “若さと熱さ” を全面に押し出した熱演を見せた。贅沢にも中盤に登場したモトリー・クルーは、女性コーラスのナスティ・ハビッツを従え、アメリカン丸出しの華やかで猥雑なロックショウをソ連の地でもお構いなしにぶちかました。

オジー・オズボーンは、ザック・ワイルドが加入して間もないラインナップだった。ブラック・サバス時代の名曲も含め、メタル界の帝王に相応しい圧巻のパフォーマンスを披露し、オーディエンスを完全掌握した。ソ連上陸が2回目のスコーピオンズは、知名度も人気ぶりもダントツ。縦横無尽にステージを駆け回る、エネルギッシュなパフォーマンスを展開。激しいメタルから感動的なバラードまで、大観衆によるシンガロングを誘発した。

ヘッドライナーを務めたのは、ボン・ジョヴィだ。観客席に軍服姿で紛れ込んだジョンが、軍人のセキュリティの間をぬってステージに向かう劇的な演出でスタート。定番曲を網羅したセットリストでスタジアムを揺らしていく。パイロを多用したド派手な演出に彩られ、トリに相応しい渾身のショウを披露した。ラストには、ジョンがアメリカ国民を代表し、ソ連の人々に向けたスピーチ映像が流れた。

そして、全出演者がステージに上がって、ロッククラシックのカヴァーを演奏。致命的なトラブルもなく、奇跡のフェスは大団円を迎えた。コンサートの主旨を抜きにしても、このフェスで繰り広げられた豪華絢爛なショウは、80s HM/HRバブルが集大成を迎えた瞬間だったとも言えよう。

共通言語はロックンロール、地球上の誰もがひとつになれる!

民主化への改革が進んでいたとはいえ、ソ連の若者たちは、これまで出演バンドの音源は海賊盤でしか、手に入れることができなかった。また、かつての日本のように、ライヴで立ち上がることすら許可されていなかった。

会場に詰め掛けた10万人以上もの人々の熱狂ぶりは、そんな環境の中で溜まりきったエネルギーを、マグマの如く放出させているように映った。その中心をなす若者たちはもちろんのこと、老若男女の姿も散見された。

会場の警備のため、おびただしい数の軍隊が配置され、物々しい雰囲気だったが、ライヴがヒートアップしていくに従い、軍服を着た軍人の中には、熱狂の渦に身を委ねるものも現れた。

東側の閉ざされた文化の中で、ロックに飢えていた彼らが、一様に叫び、歌い、立ち上がり体を激しく揺らす光景はショッキングでもあり、なぜか、心の奥底に響く感動をもたらした。そこにはロックへの飢えた心を失いつつある西側のロックファンにはない、初期衝動が満ち溢れていたからだ。

モトリー・クルーのヴィンス・ニールが「ロックンロールが好きなヤツらは、モスクワでもアメリカでも日本でもロンドンでも、どこでも一緒さ」というコメントを残している。ロックという共通言語で、地球上の誰もがひとつになれることを、このフェスは満天に知らしめてくれた。

ほどなくしてソ連崩壊、人々の心を動かした HM/HR

フェス後に語られた舞台裏を覗くと、チャリティーの美談だけではなかったようだ。とりわけ、フェスにありがちな出演順について、バンドのエゴがぶつかり合い大揉めに揉めて、モトリー・クルーは、楽屋裏での喧嘩を最後に、ドグとのマネジメント契約を解消してしまったのは、何ともロックな後日談だ。

スコーピオンズは、フェスを通じて肌身に感じたソ連の変革の風を、「ウインド・オブ・チェンジ」で表現して、世界的な大ヒットを記録した。今年に入り、この楽曲が、実は東西冷戦末期のプロパガンダの一環だったのでは… という記事が海外メディアで出て話題になっている。

メンバー自身はこの説を否定しているが、フェス後ほどなくしてベルリンの壁が崩壊し、その後、ソ連の体制も崩壊したのも事実だ。長い時を経て、こうした噂が飛び交うこと自体、このフェスが単なるロックフェスではなく、歴史を大きく動かしたきっかけのひとつと捉えられている証であろう。

そうした歴史的な意義はともかく、いちメタルファンとしては、純粋にソ連の人々の心を動かした音楽が、80年代を揺るがしたHM/HRだったという事実が、改めて嬉しく誇りに思えるのだ。

カタリベ: 中塚一晶

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