人々は漏洩の罪を恐れ「○○(まるまる)」と呼んだ 戦時中、淡路島に秘密の飛行場

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資料を前に、爆撃の記憶をたどる溝渕昇さん=南あわじ市

 太平洋戦争中、兵庫県の淡路島に「○○(まるまる)」と呼ばれた陸軍の由良飛行場があった。軍事機密を漏らさないよう、付近の住民らがそう呼んだ。戦後75年を迎え、その存在を記憶する人は年々減少。父が建設のために立ち退きを迫られ、苦労を見聞きしてきた男性は、語り部として子どもたちに伝える。「ここに、戦争のための飛行場があったんや」と。(上田勇紀)

 地域史を記した「三原郡史」によると、飛行場は1943(昭和18)年11月、陸軍が地元に協力を命令。現在の南あわじ市にあった榎列(えなみ)村、松帆(まつほ)村の計180ヘクタールが用地となり、田畑のほか約40戸は冬から立ち退きを余儀なくされた。「人びとは軍機漏洩(ろうえい)の罪を恐れて『飛行場』という言葉を一切使わず、それを『○○』と言った」と記される。

 同市の佐藤繁俊さん(73)は、父・太一さんから当時のことを聞いて育った。「涙銭で、1カ月で行けと言われて弱った。普通、人間は一生に1回、家を建てたら上等。わしは3回建てた」。飛行場用地内に家があり、築いた木造家屋を解体。3キロほど離れた場所で建て直した。終戦後には住民らが6年がかりで跡地を開拓。元いた場所近くに戻り、再び家を建てた。

 身長が低かったこともあって徴兵されなかった太一さんは、44年春に始まった飛行場建設の手伝いを命じられた。重機はなく、各地から集められた千人余りによる突貫工事。秋以降は未完成ながら一部で使用が始まり、幅30メートルの滑走路で戦闘機が離着陸を始める。太一さんは、燃料を入れたドラム缶を馬に載せて運ぶ荷役だった。ドラム缶は慶野松原など海岸の砂浜に隠して保管していたという。

 米軍からの防空を担うはずの飛行場だったが、45年春から空襲が激化しても役に立たなかった。それどころか、島は標的にされた。当時13歳だった溝渕昇さん(88)=同市=は終戦間際の7月30日、米軍の爆撃で4人が犠牲になったことを生々しく記憶する。「飛行場とつながる橋を壊すための爆弾が、防空壕(ごう)に命中した」。夜には荷車に棺おけが四つ積まれ、運ばれていった。通っていた松帆国民学校は飛行場の兵舎となり、公会堂や神社を使わざるを得なかった。

 飛行場跡地には田畑などが広がり、当時を想像することはできない。記憶をつなごうと1994年、建設のために一時、立ち退きを迫られた人や子孫らが跡地に記念碑を建立。10年ほど前から、佐藤さんは地元・松帆小学校の児童に飛行場について語っている。

 「ここには、みんなのおじいちゃん、おばあちゃんが生まれたぐらいの昔に、飛行場があったんやで」。そしてこう続ける。「旅行に行くための飛行場やなくて、殺し合いのための飛行場。戦争は、絶対にあかんことや」