「求められた場所で野球を」 元メジャーリーガー、田沢純一

BCリーグ埼玉の入団記者会見で、ユニホームを着てポーズをとる田沢純一投手=7月13日、埼玉県熊谷市

 7月31日、埼玉県熊谷。一人の元メジャーリーガーが日本のマウンドに立っていた。

 独立リーグにあたるBCリーグの埼玉に入団が決まったばかりの田沢純一投手だ。

 栃木相手の6回、田沢の名前がコールされるとスタンドからどよめきが起こった。

 かつて上原浩治らとともに、レッドソックスの世界一に貢献した右腕がそこにいた。

 貫禄の投球で1回を打者3人で片付けた。最速は152キロ、輝きはまだ失っていない。

 4月、田沢の姿は地元・神奈川にあった。本来なら米国でトレーニングしている時期だが、3月にレッズから自由契約の通告を受けていた。

 次なる選択肢はマイナー球団との契約になるが、今季は新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあって異常事態。既にMLB(大リーグ機構)では、経営健全化の下でファームチームの削減方針を決めていたが、そこにコロナ禍が追い打ちをかける。

 7月にはマイナーリーグの中止が決定するなど“再就職”を目指す田沢には逆風が吹き続けた。

 これだけの実力者なら日本球界から声がかかってもおかしくなさそうだが、田沢には米国挑戦を決めた2008年にさかのぼり、いわゆる「田沢ルール」(後述)という大きな壁があり、おいそれと日本のプロ野球に復帰できない。

 あらゆる選択の道が閉ざされて出した結論が国内独立リーグへの入団だった。

 今でこそ、日本球界で活躍してからメジャーへ行くのは珍しくないが、田沢の場合は特異なケースで夢の実現を果たした。

 2008年。社会人野球の新日本石油ENEOS(現JX-ENEOS)のエースとしてドラフトの1位指名も確実と見られていた田沢は、日本球界には見向きもせずに大リーグのレッドソックスと電撃契約を結んだ。

 前例のない人材流失に慌てた日本野球機構(NPB)は、これを機に新たなルールを作った。

 「ドラフト指名を拒否して海外のプロ球団と契約した選手は、退団後一定期間、NPB球団と契約することはできない。プレーするにはドラフト指名される必要があるが、高卒選手は3年間、大学・社会人出身は2年間、指名を凍結される」

 これが「田沢ルール」だ。12球団の申し合わせ事項であり法的な根拠はないが、長い間球界の暗黙のルールとして存在し続けている。

 つまり、社会人出身の田沢が日本のプロ野球に入団を希望しても、今後2年間待ってドラフト指名を受けることが条件となるわけだ。

 23歳で海を渡り、主に中継ぎ投手として活躍、特にレッドソックス時代の13年から16年にかけては、毎年50試合以上に登板してチームを支えた。

 18年には自己最高となる700万ドル(約7億2800万円)の年俸も稼ぎ出している。まさにアメリカンドリームをつかんだ男でもあった。

 ここ数年は右肘の手術などでマイナー暮らしが続いたが、34歳になった今も第一線で投げる、それに向かって挑戦する気持ちに変わりはない。

 球団とは今後の進路についても話し合っている。

 「このオフ、もう一回メジャーを目指す。それが駄目ならもう1年やってNPBも。それが共通認識です」と、埼玉の角晃多監督もバックアップを惜しまない。

 そんな田沢の「国内復帰」に合わせるように今、日本球界でも「田沢ルール」の見直しへの機運が高まっている。

 将来性豊かな若者が世界を目指すのは当たり前の時代だ。逆に米ドラフト1位指名を蹴ってソフトバンクに入団したC・スチュワート投手のような例もある。ちなみにMLBではこうしたケースにおとがめはない。

 「ルールに関しては、どうしようもない。ただ、誤解してほしくないのは、僕は日本が嫌いでアメリカに行ったわけではない。ただ、アメリカで野球がしたかっただけ。求められた場所で野球がやりたかっただけです」(4月29日付、スポーツニッポン新聞社のインタビューに答えて)

 時代を先取りし、時代に翻弄された12年。安住の地を求めて田沢の旅はまだ続く。

荒川 和夫(あらかわ・かずお)プロフィル

スポーツニッポン新聞社入社以来、巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)などの担当を歴任。編集局長、執行役員などを経て、現在はスポーツジャーナリストとして活躍中。

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