進行性の難病抱え競泳に挑む 佐久間勇人さん「もがいて笑顔で生きたい」

進行性の難病を患う佐久間勇人さん

 日々、少しずつ進行していく症状。足の筋力も衰え、うまく息継ぎもできなくなってきた―。千葉県市川市の会社員、佐久間勇人(さくま・はやと)さん(45)は、小脳の神経細胞の病変で運動機能が徐々に失われる進行性の難病「脊髄小脳変性症」を患う。病気になった後、競泳を始め、全国障害者スポーツ大会で大会新記録を打ち出してきた。「こういう病気を抱えながら、もがいて生きている人間がいることを知ってほしい」(共同通信=岩切希)

 ▽「思いやりがない」

 佐久間さんが中学2年生のころ、母親の洋子(ようこ)さんが発症し、高校卒業時にはふらつきが目立つようになった。「母親の動作一つ一つがわざとやっているようにしか見えなかった」と佐久間さんは振り返る。「ちゃんとやってくれよ」「ふざけるな」。洋子さんの気持ちが考えられず、見る度に怒鳴ることもあった。

 洋子さんの症状は次第に進行し、自宅のトイレに自ら行くことも困難になっていった。それにもかかわらず「面倒を見てあげるよ」と言うだけで、実際に手伝うことはなかった。

生前の母、洋子さん(佐久間さん提供)

 「あなたは思いやりがない」。当時、洋子さんから言われた言葉が今も胸に突き刺さる。「私が同じことをされたら耐えられない。同じ立場になって初めて分かった」。

 2005年、洋子さんは56歳で亡くなった。病気が進行しても、笑顔を常に絶やさない人だった。葬儀には多くの人が訪れ、人間の器の大きさを感じた。

 ▽40歳で始めた競泳

 洋子さんの死から数カ月後、主人公が同じ病のテレビドラマ「1リットルの涙」を見て、この病気が遺伝する可能性があることを初めて知った。自覚症状はなかったものの、弟の勧めで遺伝子検査を受けてみると、09年2月、同じ病因遺伝子の異常が見つかった。

 診断から3年後には歩行時につえが欠かせなくなった。仕事にも影響が出始め転職を決意。50社近くの就職試験を受け、現在勤める会社に障害者枠で再就職した。

 競泳を始めたのは2015年、40歳の時だった。「障害者になっても体を動かすことをやりたい」と考え、障害者のスイミングクラブで体験練習に参加。その際、同じ病で競泳をしていた男性を紹介された。

所属する⾝体障害者⽔泳チーム「千葉ミラクルズスイミングクラブ」の メンバーら。手前右から2人目が佐久間さん(本人提供)

 男性の元を訪ねると、ほぼ寝たきりの状態でろれつが回らなくなり話すことも困難な様子だった。男性は「今できることを精いっぱいやった方が良い」と繰り返した。「いつか泳げなくなるのに、やっても無駄ではないか」との思いが消え、その言葉を胸に競泳に打ち込むことを決めた。

 ▽笑顔で生きる

 競泳を始めた15年に全国障害者スポーツ大会に出場し、18年まで毎年、大会新記録を残してきた。その間、症状も進んだ。歩こうとしてもうまく足を踏み出せず、足が地面に着くと両膝に激痛を感じるようになり、車いすを利用するようになった。歩けなくなった分、足の筋力も急激に衰えた。

 それでも、所属チームのコーチの協力を得て筋肉を鍛えるトレーニングに取り組み優勝を目指してきた。ところが、19年は、東日本台風の影響で大会は中止。さらに今年は、新型コロナウイルス感染拡大で開催が見送られた上に、プールが使えず、練習も十分にできない状態が続いた。

筋トレする佐久間さん(本人提供)

 最近は嚥下障害(えんげしょうがい)も表れ始め、うまく息継ぎができず水を飲んでしまうこともある。だが、悲観はしていない。「この2年間を自分に対する挑戦状と思っている」と前を見すえ、こう強調する。「私は病気だけが遺伝したとは思っていない。母親の笑顔も遺伝で受け継いでいると考えている。もがけるうちはもがいて笑顔で生きていきたい」

 ▽取材を終えて

  チャレンジ精神が旺盛な人だ。症状が進む中で、パラグライダーやスカイダイビングにも挑戦。「次はスキューバ―ダイビングをやりたい」と目を輝かせる。「後悔したくない」ためだ。思わず記者が「命を燃やして生きているという感じがします」と言うと「生きてますよ。命懸けで」と破顔した。

 一方、パラリンピックに憧れを抱いた時期もあったが、選手の練習現場を見て「軽々しく行けるものではない」と壁の高さを感じたと振り返る。

取材に応じる佐久間勇人さん

 佐久間さんは「この体でどう生きていくかを考えていかないと、人生がつまらなくなる。気持ちだけはコントロールできる。『俺なんてだめだ』と考えると、とことん落ち込んでしまうので、そう思わないようにしている」と語る。

 自分は今を懸命に生きているのか。そんなことを考えさせられた。

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