黄金の6年間:編曲家 大村雅朗と松田聖子の「SWEET MEMORIES」

1983年 8月15日 松田聖子のシングル「ガラスの林檎 / SWEET MEMORIES」がオリコン1位を記録した日

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80年代はいつ始まったか?

「80年代はいつ始まったか?」という論争がある。

ある人は、「山口百恵が武道館でラストコンサートを行い、翌週、松田聖子が「風は秋色」で自身初のオリコン1位に輝いた1980年10月が、事実上の70年代と80年代の分岐点だ」と言う。

また、ある人は、「いや、山口百恵が婚約・引退宣言をした1980年3月で70年代が終わり、同年4月1日に松田聖子が「裸足の季節」でデビューした瞬間から80年代が幕開けた」と “年度説” を唱える。

「いやいや、ユーミンがアルバム『流線形'80』をリリースした1978年11月から事実上の80年代は始まっている。ほら、YMOのデビューも同じ月だろ?」と謎のマウントを取りたがる人もいる―― 僕のことだ。

そう、僕はこの80年代音楽エンタメコミュニティの “リマインダー” で、「黄金の6年間」と題したコラムを連載している。いわゆる80年代的なポップで面白い時代は、事実上78年から始まっている―― とするのが僕の説だ。そして、そんなエキサイティングな時代は83年までの6年間がピークである、とも。

事実、YMOの “散開” までの活動期間が、まんまその6年間だし、ユーミンが年2枚のオリジナルアルバムを出していた時代も、そこにピタリと重なる。そして―― 今回取り上げるあの人も、まるで「黄金の6年間」の申し子のように颯爽と時代の変わり目に登場し、エキサイティングな時代を盛り上げてくれた。

あの人とは、作・編曲家の大村雅朗サンである。

亡くなられて、もう23年が経つが、今もその偉業が色あせることはない。いや、むしろ時代を経るほどに、その伝説が語り継がれる機会が増えているように思える。

一体、大村雅朗サンとは、どんな人物だったのか。彼は音楽業界に何を残し、何を変えたのか。今回は、黄金の6年間に絞り、その軌跡を追いたいと思う。

まさに豪華絢爛、編曲家 大村雅朗が手掛けた仕事の数々

大村雅朗サン―― 音楽業界ではレジェンドと称えられる超・有名人だけど、“編曲家” という職業柄、一般にはそこまで知名度は高くないかもしれない。だが、心配ご無用。例え大村サンを知らなくても、彼が手掛けた楽曲を知らない人はいないと思う。ほら――

編曲
■ 八神純子 / みずいろの雨(1978年)
■ 岸田智史 / きみの朝(1979年)
■ ばんばひろふみ / SACHIKO(1979年)
■ 山口百恵 / 謝肉祭(1980年)
■ 佐野元春 / アンジェリーナ(1980年)
■ 松田聖子 / 青い珊瑚礁(1980年) / 夏の扉(1981年) / 時間の国のアリス(1984年) / 天使のウインク(1985年)
■ 海援隊 / 人として(1980年)
■ 伊藤敏博 / サヨナラ模様(1981年)
■ 渡邊徹 / 約束(1982年)
■ 吉川晃司 / モニカ(1984年)
■ 薬師丸ひろ子 / メイン・テーマ(1984年)
■ 大沢誉志 / そして僕は途方に暮れる(1984年)
■ 稲垣潤一 / April(1986年)
■ 渡辺美里 / My Revolution(1986年)
■ 中山美穂 / ツイてるねノッてるね(1986年)
■ 小泉今日子 / 水のルージュ(1987年)
■ 大江千里 / 格好悪いふられ方(1991年)

作曲・編曲
■ 松田聖子 / SWEET MEMORIES(1983年)

―― と、これらはほんの一例。まさに豪華絢爛。もはや “一人80年代ヒットソング史” とでも言おうか。とりわけ、ひと際輝いて見えるのが、松田聖子サンと関わった仕事の数々である。中でも、聖子サンが自身の転機になった作品として、今も「赤いスイートピー」と共に挙げる「SWEET MEMORIES」こそ、大村雅朗サンの最高傑作と言っても過言ではない。

 なつかしい痛みだわ
 ずっと前に忘れていた
 でもあなたを見たとき
 時間だけ後戻りしたの

そう、今日8月15日は、今から37年前に「SWEET MEMORIES」がB面に収録された「ガラスの林檎」(後に両A面)が、オリコンチャートで1位を獲得した日。 奇しくも、黄金の6年間のクライマックスに当たる、1983年のことである。

1978年に満を持して上京、まさに黄金の6年間の申し子

大村雅朗サン、生まれは1951年、福岡県福岡市の出身である。ちなみに、僕と同郷だ(えっ、どうでもいい?)。そして、久留米市出身の松田聖子サンとも同じ福岡県人という関係に――。ちなみに、2人は兄妹のように仲が良かったらしいが、同郷ゆえの安心感があったのかも。

大村サンは中学に入ると、吹奏楽部に入部。ここで音楽の道に目覚め、高校は吹奏楽の名門・大濠高校に進学する。3年生の時には吹奏楽部の部長を務め、全国大会で5位に入賞したという。そして高校を卒業した1970年4月―― 三重県志摩市に設立されたばかりのネム音楽院(現:ヤマハ音楽院)に第1期生として入学する。全寮制の音楽指導者のエリート養成機関だ。そこで読譜を始め、コード進行法や指揮法、作・編曲法など、あらゆる音楽に関する理論と技法を習得、2年後の1972年3月に卒業する。

さて、いよいよ大村サンは上京して、プロの編曲家として独り立ち―― と言いたいところだが、なんと地元・福岡へ帰り、ヤマハ音楽振興会の九州支部に入社する。そこで、ポプコン用のアレンジスコアを書いたり、母校の大濠高校の吹奏楽部を指導したりと、6年間が過ぎる。気がつけば1978年3月―― ここに至り、大村サンはようやく上京を決意する。時に26歳。奇しくも、聖子サンがデビューのキッカケとなる『ミス・セブンティーンコンテスト』九州地区大会に出場して優勝するのは、この翌月である。

1978年4月、満を持して上京した大村サンは、早速、ヤマハのポプコン繋がりで八神純子サンの3枚目のシングルの編曲を手掛ける。「みずいろの雨」である。作詞は、後に松田聖子の楽曲でブレイクする三浦徳子。同曲は9月にリリースされると、キャッチーなメロディと疾走感のあるアレンジが評判を呼び、60万枚の大ヒット。いきなり大村サンはヒットアレンジャーの仲間入りを果たす。そう、彼もまた、黄金の6年間の申し子だったのだ。

if… もしも―― 大村サンが、ネム音楽院を卒業した1972年に編曲家になっていたら―― ここまで順風満帆なデビューは飾れただろうか。72年といえば、まだまだフォーク全盛であり、歌謡曲の時代。後に80年代ポップスの申し子と言われる大村サンが活躍できる余地が、果たしてあったのか疑問である。あの福岡で過ごした6年間は、音楽の神様がくれた “熟成期間” だったのかもしれない。

運命の一曲となる 山口百恵「謝肉祭」、そして若松宗雄との出会い

1980年3月21日―― 大村サンにとって運命の一曲となる、山口百恵の29枚目のシングル「謝肉祭」がリリースされる。作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:大村雅朗。奇しくも、百恵サンが三浦友和サンとの婚約・引退発表をした直後のシングルだった。大村サンは同曲に、雄大で厚みのある、パワフルなアレンジを与え、百恵サンの新たな大人の一面を引き出すことに成功する。

そして―― 同曲は一人の音楽プロデューサーの目にも止まる。松田聖子を発掘したCBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)の若松宗雄サンだ。彼は「謝肉祭」を一聴し、大村サンの新しいアレンジに驚愕する。そして、聖子のセカンドシングル「青い珊瑚礁」の編曲を依頼したのである。

ここから先の話は長くない。
皆さん、ご承知の通り、大村雅朗サンは「青い珊瑚礁」に躍動感のある、ポップで新しいアレンジを施し、同曲はその勢いのまま、聖子が伸びやかに歌って大ヒット。新しいアイドルの時代の到来を決定づけた。特に若松プロデューサーが気に入ったのが、大村サンが作った間奏のアイデアだった。これを機に、大村サンは、松田聖子プロジェクトに欠かせないアレンジャーとなる。

編曲家は歌い手のレコーディングには常に立ち合う。そこで聖子サンに楽曲の世界観などを分かりやすく、テクニカルに伝えるのが、大村サンの仕事だった。いつしか、2人は同郷であることも手伝い、強い信頼関係で結ばれる。ある日、聖子サンがご両親と喧嘩して家出した際に駆け込んだ先は―― 大村サンのマンションだった。もちろん、大村サンがご両親に電話を掛けて安心させ、ほとぼりが冷めた後、聖子サンを家まで車で送り届けたのは言うまでもない。

両A面として再発、83年の松田聖子を代表する「SWEET MEMORIES」

そんな大村サンに、B面とはいえ、聖子サンのシングル曲の “作曲” の依頼が来る。大村サンは編曲家だが、数は多くなかったものの、作曲もできた。時に1983年―― そう、俗に言う「1983年の松田聖子」と呼ばれる当たり年に、大村サンは一世一代の大仕事に取り組む。そして完成した曲が――「SWEET MEMORIES」である。作詞はもちろん、プロジェクトの戦友・松本隆サンだ。

 Don't kiss me baby
 we can never be
 So don't add more pain
 Please don't hurt me again

同曲は、サントリーの缶ビールのCMに起用された。歌詞は2番の英語のパートが使われ、クライアントの意向で歌手名は表記されなかった。画面では、ジャズ風の大人のバラードを、アニメのペンギンが歌っている。だが、その憂いある歌声と完璧な歌唱力は、誰が聴いても松田聖子その人だった。

同曲はたちまち評判となり、間もなくCMは「唄 / 松田聖子」と表記が入り、同曲がB面に収録されたシングル「ガラスの林檎」は大ヒットする。やがて、「SWEET MEMORIES」を両A面にするようファンの間で盛り上がり、満を持して同年10月20日、ジャケットを一新して「両A面」として発売。晴れて10月31日、11週ぶりに再度1位に――。

 失った夢だけが
 美しく見えるのは何故かしら
 過ぎ去った優しさも今は
 甘い記憶 Sweet Memories

大村雅朗サンが、上京してプロの編曲家となり、やがて松田聖子プロジェクトと関わり、数々のヒット曲をアレンジャーとして世に送り出し、遂に自らの作曲で『SWEET MEMORIES』を完成させるまでが6年間――。

黄金の6年間とは、そんな奇跡を生む時間である。

※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。

■ 大滝詠一と松本隆の黄金の6年間「A LONG VACATION」が開けた新しい扉
■ 松本隆の時代、黄金の6年間の幕開けは原田真二「タイム・トラベル」
■ 中森明菜「トワイライト」人々の記憶から薄れていった来生姉弟のスローバラード
etc…

カタリベ: 指南役