『大連からの引き揚げ』 山川和子さん えぷろん平和特集2020 #あちこちのすずさん

 父が満鉄勤務で、大連に6人家族で暮らし、終戦後もとどまっていた。
 昭和22(1947)年2月19日、私は長女で7歳。妹と2人の弟がいた。明日、引き揚げ船に乗ることになっていた。昼から友達宅で遊び、帰る途中、近所のおばちゃんに「まだいたの? ○○さんたち今日引き揚げるからと集合所に行ったわよ」と言われた。走って帰ると母は一升瓶にコーリャンを入れ細い棒で突いていた。言われたことを父に伝えると真っ青になって出掛け、夕方帰宅。皆慌ただしく母の手作りリュックを背負い、家を出た。
 夜出歩くと銃を持つロシア軍人に殺されると言われていた。集合所に着くとトラックに押し込まれ埠頭(ふとう)へ。夜遅く乗船し出発。病院船だと両親は話していた。
 病人や体調不良の人が大勢いたようだ。目に焼き付いているのは亡くなった人を海の中へ投げ入れていたこと。ある母親は、布にくるんだ小さな子を抱き締め、しばらくうずくまり泣いて、海へ投げた。母親はそのままうずくまっていた。いつも思い出す。
 浦頭港には夕方着いたんだろう。下船し、一番初めに目にしたのは西へ沈んでいく夕日。そのきれいな光景が今も忘れられない。
(島原市・無職・80歳)


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