米国の「ワープ・スピード作戦」とは コロナワクチン開発へ、トランプ政権の命運かけたギャンブル?

 ロシアのプーチン大統領は8月11日、世界で初めて新型コロナウイルスのワクチンを登録したと発表した。しかし登録前の治験で接種を受けたのは100人以下。試験データも公開されておらず、有効性や安全性が十分に検証されたとは言い難い。一方、米国もワクチンの早期開発に向け「ワープ・スピード作戦」を展開している。普通なら実用化までに何年もかかるワクチン開発だが、100憶ドル(約1兆700億円)という巨額の政府投資と官民連携で、来年1月までにワクチンの実用化をめざす。一日も早い実用化に向けさまざまな工夫はしているものの、有効性と安全性を十分に確認するための治験計画や、米食品医薬品局(FDA)の審査基準に妥協はない。すでに2種類のワクチン候補が最終の大規模治験を開始し、今月中には3つ目のワクチン候補もそれに続く。新型コロナの感染抑制に苦戦する米国の命運は、真に有効かつ安全なワクチンの実用化にかかっている。(テキサス在住、ジャーナリスト=片瀬ケイ)

モデルナが開発している新型コロナウイルスワクチンの臨床試験での投与=3月、米ワシントン州シアトル(AP=共同)

 ▽感染沈静化はワクチン頼みの米国

 ワープ・スピード作戦は、新型コロナウイルスに対するワクチンや治療薬、診断薬の開発、製造を最速で進めるため、従来にないやり方で米国政府が強力に後押しするもの。このうちワクチン開発についてトランプ大統領は5月に、有効で安全なワクチンを来年1月までに3億回分用意するという目標を発表している。米国の人口は約3・3億人なので、大部分をカバーできる量である。

 米国ではすでに550万人以上が新型コロナに感染し、死亡者数も世界で一番多い。米疾病対策センター(CDC)は、今の推移だと9月上旬までに死者が20万人に達すると予測している。個人主義が強く、社会的距離の確保やマスク着用が市民に徹底できない中では、感染の沈静化をワクチンに期待せざるを得ない状況だ。

 ロシアが大規模治験を実施しないまま、新型コロナワクチンを登録したことで、拙速なワクチン開発を心配する人もいるだろう。が、米国のワープ・スピード作戦はワクチンの有効性や安全性確認では妥協することなく、有望なワクチン候補への巨額の財政投資と調整や事務手続きにかかる時間の短縮で、早期のワクチン実用化を目指すものだ。

 ワクチン開発では、厳格な基準やガイドラインに沿った3段階の治験で、有効性や安全性を検証する。特に最後の第3相試験では、何千人、何万人規模の参加者を無作為に2グループに分け、それぞれ試験ワクチンとプラセボを接種する。その結果を比較し、効果と安全性を確認する。治験の準備と実施、データ収集と分析、治験結果の審査と政府への承認申請など、どれをとっても時間がかかる。

新型コロナウイルス感染症のワクチン開発が進む企業の工場を訪れ、演説するトランプ米大統領=7月、ノースカロライナ州(ロイター=共同)

 しかしどんなに時間がかかっても、政府から承認を受けて販売できる見通しがなければ、製薬企業はワクチンの製造に踏み切れない。このためワクチンの実用化には長い年月がかかり、過去最短で実用化されたワクチンでも開発に4年を費やしている。

 ワープ・スピード作戦では、こうしたハードルを越えるため、米国政府が有望視するワクチン候補の開発事業体に巨額の先行投資をする。承認直後にワクチンを配布できるよう、最終治験と並行してワクチンの製造を始めるのだ。ワープ・スピード作戦では、ワクチン接種に必要なさまざまな資材の確保も着々と進めている。

 治験が失敗すれば、先行して製造したワクチンは使えないので無駄になる。しかし成功すれば、承認後、これまでより数カ月早くワクチン接種を開始できるようになる。さらに米国から投資を受けたワクチン候補が承認に至らなかった開発事業体は、その時点で製造能力を承認された他社のワクチン生産に振り分け、実際に使えるワクチンを急ピッチで量産する契約になっている。トランプ政権ならではの、前代未聞のギャンブル作戦である。

米モデルナが開発中の新型コロナウイルス感染症のワクチン(AP=共同)

 ▽続々と第3相試験へ

 世界では100を超える新型コロナワクチンの開発が進められている。まだ実用化されたことのない遺伝子技術を使ったDNAワクチンやmRNAワクチンもあり、どのタイプがどれだけ成功するかはわからない。そのためワープ・スピード作戦でもリスクを分散し、さまざまなタイプのワクチン候補から7つを選択する。

 これまでに選ばれたのは、米モデルナ社と米国立アレルギー感染症研究所(NIAID)、および米ファイザー社と独BioNTech社がそれぞれ開発した「mRNAワクチン」2種、英オックスフォード大学と英アストラゼネカ社、および米ジョンソン・エンド・ジョンソン社開発による2つの「ウイルスベクターワクチン」、そして米ノババックス社、および仏サノフィ社と英グラクソ・スミスクライン社がそれぞれ開発した「DNAワクチン」で合計6つ。残る「不活化ワクチン」の開発パートナーはまだ発表されていない。

 各開発事業体は米国政府から10億ドルから20億ドル(約1070憶円から2140憶円)程度の投資を受けて、大規模な第3相試験および先行製造に着手する。またワープ・スピード作戦では財政支援だけでなく、HIVワクチンや他の感染症対策で構築してきた既存の臨床試験ネットワークを「COVID-19予防治験ネットワーク」に統合し、全米での大規模治験の実施を強力に支援する。その見返りとして、ワクチンが承認に至った際には、各社とも米国に1億回分のワクチン(オックスフォード大のワクチンは3億回分)を供給するという約束だ。

 モデルナ社とファイザー社のワクチン候補は、それぞれ7月末に3万人を対象とする第3相ランダム化比較試験を開始した。またすでに英国やブラジルで5000人規模の第3相試験を行っているオックスフォード大のワクチン候補も、8月中に米国内で3万人規模の治験を開始する。残るワクチン候補も年内には第3相の治験を始める予定で、ノババックス社のワクチン候補はフジフイルム・ダイオシス・バイオテクノロジーズが受託して製造を始めている。

 ▽“魔法のワクチン”はない

 ワープ・スピード作戦を率いるモンセフ・スラウイ博士は8月7日、ワクチンの入手に関して米国科学・工学・医学アカデミーの委員会で、ワクチンによっては2回接種が必要な可能性もあることから、3億回分ではなく、3億人分を調達すると説明。その上で、すべての量を調達するには2021年の半ばまでかかるという見通しを述べた。

スティーブン・ハーン食品医薬品局(FDA)長官=(2020年4月、UPI=共同)

 選挙を有利に進めるために、トランプ大統領が早期のワクチン承認に政治的な圧力をかけるのではないかという憶測もあったが、スラウイ氏はFDAからは緊急使用の特別承認ではなく、通常の完全な承認を得るという考えを示した。スティーブン・ハーンFDA長官も「迅速に、しかし他の新薬承認と同じ基準で、科学とデータに基づき厳格な承認審査を行う」と、連邦議会の公聴会で証言している。

 その一方で、ワクチンの有効性についてハーン長官は「最低でも50%の有効性」を求める考えを示している。接種を受けなかった人と比較して、接種した人の発病率が50%以上減少するという意味だ。これまでのワクチンで、最も有効性が高いのは麻疹(はしか)のワクチンで97%、インフルエンザのワクチンは平均で50%から60%。ただしインフルエンザの感染を完全に予防できなくても、ワクチン接種は症状を軽くする効果がある。

 NIAIDのファウチ所長も、「過去のさまざまなワクチンを参考にすれば、新型コロナのワクチンの有効性も70%から75%と見るのが現実的」だと、ブラウン大学主催のインタビューで述べた。ワクチンによって、もはやパンデミックでははない状況に感染を抑え込めるはずだが、それには手洗いやマスクなどの公衆衛生対策を継続していく必要があるという。

 8月7日に発表されたギャラップ世論調査では、FDA承認を受けた新型コロナワクチンの接種が無料でも、35%の米国市民が接種を受けないと答えている。またワクチン接種といっても、効果がどのくらい持続するか不明な中で、集団免疫の獲得はあまり期待できそうにない。

 ワープ・スピード作戦では早期にワクチンを調達するだけでなく、市民にワクチンの安全性と有効性を納得してもらい接種率を高めることも重要だ。一方で、マスクや社会的距離の維持といった日常の対策をもっと社会に浸透させていかない限り、ワクチンが出来ても新型コロナとの長い闘いが続きそうだ。

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