林哲司とシティポップ、尼崎の夕暮れが洗練されたのは美しいメロディのおかげ 1982年 10月21日 上田正樹のシングル「悲しい色やね」がリリースされた日

大阪を舞台にしたシティポップ、上田正樹「悲しい色やね」

旅行会社の店先やWebに京都・大阪・神戸をひとまとめにした観光キャンペーンが載るようになって久しい。1990年にJR西日本が「三都物語」をはじめたのがきっかけなので、もう30年になる。かつて作家の谷崎潤一郎や田辺聖子が言及したとも言われる “関西人の理想” は、「京都で学び、大阪で稼ぎ、神戸に住む」だった。

そう、大阪は西日本を代表する商都、働く街。そんなこともあってか、“大阪” の出てくる歌は、どちらかというと濃ゆい印象で、シュッとしたスマートな印象の歌があまり浮かんでこないが、そんな大阪を舞台とした数少ないシティポップの1曲が、上田正樹さんの「悲しい色やね」。作詞は康珍化さん、作曲は林哲司さん、編曲は星勝さんの手による楽曲で、1982年10月にリリースされた。

「悲しい色やね」は、もともとシングル用に書かれた曲ではなく、ブルースやソウル、レゲエを歌う先駆者として一定の評価を得ていた上田正樹さんの担当ディレクターが、“ソウルやリズム&ブルースのアーティストがポップスを歌う” というコンセプトのアルバム用に複数の作曲家に依頼し、林哲司さんが3曲提出したうちの1曲だった。

シングル用に書く曲には、覚えやすい耳に残るメロディを入れるのに対して、アルバム用に書く曲は、そのアーティストのことを考えながら比較的自由に書くという違いがあるそうだ。

作曲は林哲司、ブルーノートを生かした美しいメロディ

林哲司さんはヤマハで雑誌『ライトミュージック』の編集をしていた頃、アマチュア時代の上田正樹さんが練習室でピアノの弾き語りでビートルズの「レット・イット・ビー」を歌うのを聴いたことがあった。

彼の声質から、ジョー・コッカーが歌う「美し過ぎて(You are so beautiful)」(作曲はビートルズをサポートしたキーボーディスト、ビリー・プレストン)を想起し、ハスキーな声の上田正樹さんに、ブルーノートを生かした美しいメロディを歌わせるというアンバランスな組み合わせを考えて、バラード曲を書いた。このバラード曲は、デイヴィッド・フォスターが在籍したカナダのバンド、スカイラークが1973年に全米トップ10入りさせたヒット曲「ワイルド・フラワー」を思わせる雰囲気とメロディを持っていた。

後に「悲しい色やね」となるメロディは、林哲司さんが音楽の世界に入ったときにお母様からプレゼントされた、ボールドウィンのコンソール・ピアノから生まれた。最初にできた、歌い出しの部分を手始めにモチーフをつなげて、ごく自然にメロディができていったという。2019年現在、そのピアノはサムライミュージック三島スタジオに置かれている。

“ごく自然にメロディができていった” というのは、林哲司さんのそれまでの30年余りの音楽人生の賜物にほかならない。

林哲司のバイオグラフィ、作曲のきっかけは加山雄三

1949年生まれの林哲司さんは静岡県出身。5人兄姉の末っ子で、物心ついた頃からひと回り以上離れた2人の兄の影響で歌謡曲も洋楽も聴いていた。中学でブラスバンド部に入部してクラリネットをはじめる一方、父親が経営する製紙会社の寮にいた人のギターを借りて当時のアメリカンポップス、洋楽ヒット曲を覚え、ビートルズ「シー・ラヴズ・ユー」に衝撃を受けることになる。

高校に入学してすぐ坊主頭に詰襟でエレキギターを持ちバンドをはじめ、テレビ『スター千一夜』で自作曲を演奏する加山雄三さんを見て作曲を始めた。曲を作ってはオープンリールに吹き込み、その数は高校3年間で200曲ほどに及んだ。

大学入学後も音楽は続け、恵比寿にあったヤマハ音楽振興会の作曲・編曲コースに通い、スコアの書き方やレコーディングの仕方などを学んだ。この教室で出会ったのが萩田光雄さんや佐藤健さん、船山基紀さん。

ところが、林さんは大学に行っていないことが親に知れて仕送りを止められ、アルバイトでヤマハに入社。雑誌部門で譜面やレコード評を担当してずっと最新のポップスに触れてきた。その頃に聴いたのがアマチュアだった上田正樹さんの歌声だった。

当時の洋楽を巧みに取り入れた、シティポップたるメロディ

このコラムを書くにあたり、私は「悲しい色やね」のメロディだけを何度も聴いて、ピアノやサックスでの楽器演奏を目的としたインスト曲として書かれたようにも感じた。歌詞をつけずにメロディだけ鼻歌やラララで唄ったり、楽器をお持ちの方なら実際に弾いてみると、揺れ動きの大きいドラマを含んだメロディだと気づく方も多いのではないだろうか。湿り気を感じさせるもの悲しいメロディの中に、どこかからっとした明るさがある。

このメロディこそが、「悲しい色やね」が当時の洋楽を日本の音楽に巧みに取り入れた、“シティポップ” たる所以だ。

林哲司さんが書いた、ブルーノートを生かした美しいメロディのバラードには、静岡県浜松市出身の康珍化さんが書いた、関西弁の女性目線のことばがつけられた。当初林哲司さんがメロディを作ったときにイメージしていた世界とはまったく違う言葉がフィットして、「手のつけようのないほど完成されたものになってしまっていた」という。

編曲は星勝、せつなさが溢れる素晴らしいアレンジ

その、手のつけようのないほど完成された歌には、せつなさが溢れる素晴らしい編曲がイントロからアウトロまで施された。これはひとつひとつ細かく書き出すとスペースがいくらあっても足りないので、1ヵ所だけ紹介する。

 大阪の海は 悲しい色やね
 さよならをみんな
 ここに捨てに来るから

上田正樹さんのヴォーカルと入れ替わる間奏部分は、沢井原兒さんのサックスソロのフレーズがこれまた泣かせること。そこから再び上田正樹さんのむせび泣くようなヴォーカルに主役を返す様を聴いているだけで、工場と街の灯がポツポツと遠くに見える情景と、微かにべたっとした磯のにおいまでが頭をよぎる。

ちなみに、歌い出しの「にじむ街の灯」は大阪市内から海を越えて見える尼崎の風景だ。この歌が作られた1982年頃はまだ尼崎を含めた大阪湾岸は、暗い色をした海沿いに阪神工業地帯と殺風景な埋め立て地が点在する場所だった。

そして、この「悲しい色やね」のヒットが、康珍化さんと林哲司さんのコンビのスタートになった。1983年には杉山清貴&オメガトライブ「サマー・サスピション」、杏里「悲しみがとまらない」、1984年には中森明菜「北ウイング」… といった覚えやすく耳に残るメロディが印象的な、人々に愛されるヒット曲をいくつも生み出し、名コンビと言われることになる。

参考文献
■『歌謡曲』(林哲司 / 音楽之友社)
■『ポップス作曲講座 ヒット曲の作り方教えます』(林哲司 / シンコーミュージック・エンタテイメント)
■『Tetsuji Hayashi SONG FILE』(コンサートパンフレット)
■『この人の哲学 林哲司』(東京スポーツ)

カタリベ: 彩

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