林哲司とシティポップ、新しいアイドル・ポップスの世界を開拓したヒットメーカー 1984年 9月10日 菊池桃子のアルバム「OCEAN SIDE」がリリースされた日

実力もカッコよさも兼ね備えた作曲家、林哲司

80年代以降の歌謡曲を語る上で絶対に欠かせない作曲家のひとり、林哲司。多くのリスナーがその名前を認識したのは、1979年の竹内まりや「SEPTEMBER」であり、直後の松原みき「真夜中のドア~Stay With Me」であったと思う。しかしその前にも、しばたはつみ「マイ・ラグジュアリー・ナイト」(1977年)、大塚博堂「めぐり逢い紡いで」(1978年)のアレンジや、さらに遡れば1973年にシンガーソングライターとしてデビューしており、思いのほか林哲司のキャリアは長いのである。

80年代には数多の傑作を生み出してヒットメーカーとして広く知られてゆくのだが、歌謡曲の作曲家は多かれど、ルックスも伴った、いわば実力もカッコよさも兼ね備えた作家となるとその数は決して多くはない(?)わけで、時代がもう少し早ければ、都倉俊一、平尾昌晃に次ぐNHK『レッツゴーヤング』のメイン司会者を、林哲司が務めていたかもしれない。そして何より、従来の歌謡曲とは一線を画する洗練されたメロディを生み出す貴重な存在であり、歌謡ポップス、アイドル、アニメ、ドラマ、映画音楽と幅広いフィールドで活躍し続けている。

上田正樹「悲しい色やね」、杏里「悲しみがとまらない」といったヒット曲が生まれた80年代前半は、昭和のアイドル黄金期でもあり、その頃まだかろうじてティーンエイジャーだった自分にとっては、林哲司が次々と送りだすアイドル・ポップスに注耳せずにはいられなかった。

80年代アイドル史に残る神曲、中森明菜「北ウイング」

80年代アイドルきっての実力派アイドル・中森明菜のレパートリーの中でも1、2を争う傑作シングル「北ウイング」を筆頭に、岩崎良美「愛はどこに行ったの」「くちびるからサスペンス」、原田知世「愛情物語」「天国にいちばん近い島」、堀ちえみ「稲妻パラダイス」、石川秀美「熱風」、早見優「Me☆セーラーマン」と枚挙に暇がない。しかもこれらの曲がすべて1984年のリリースというのに驚かされる。どれだけ忙殺されていたのだろう。

アレンジも共に手がけた「北ウイング」は、とにかく凄い曲だ。スリリングなイントロから歌に入ると一旦トーンダウンし、サビに向けて徐々に昂揚感を増してゆく巧みなメロディ。サビではブレのない安定して伸びやかな歌唱に圧倒される。中森明菜の卓越した技量を見越した上で曲が提供され、「北ウイング」は80年代アイドル史に残る神曲となった。

作詞の康珍化との盤石のコンビは、杉山清貴&オメガトライブの「SUMMER SUSPICION」を聴いた中森明菜からの指名だったそうだ。これは、かつて山口百恵がダウン・タウン・ブギウギ・バンドを気に入り、阿木燿子×宇崎竜童コンビの曲を自ら希望して実現に至ったというエピソードを想起させる。

菊池桃子デビュー、シングルとアルバム全ての作曲を担当

さらに1984年は菊池桃子がデビューしており、林哲司は菊池桃子のシングルとアルバム全ての作曲を手がけている。元アウト・キャストの藤田浩一プロデュースのもと、同じ事務所(トライアングル・プロダクション)、同じレコード会社(バップ)の杉山清貴&オメガトライブへも並行して楽曲を提供し続けたのだから、驚異的な仕事量である。

菊池桃子に提供された作品のうち、前半は秋元康、後半は売野雅勇の詞が主で、都会的で洗練され、限りなくシティポップスに近い、新しいアイドル・ポップスの世界を開拓したのだ。なお、“シティポップ” という括り名はわりと最近のことで、当時は “シティポップス” と呼ばれていた筈である。“リンス” がいつの間にか “コンディショナー” になっていたのと同じ(かな?)。

以降も1985年デビューの井森美幸や、1986年デビューの島田奈美(現・島田奈央子)の多くの曲などアイドルへの楽曲提供は潤沢で、なかでも1986年は、いずれも作詞:川村真澄、編曲:船山基紀による「信じかたを教えて」「サヨナラは私のために」「思い出をきれいにしないで」の松本伊代 “サヨナラ三部作” も特筆すべき作品として挙げられる。松田聖子にも「LET'S BOYHUNT」や「密林少女」などファンの間でも人気の高いアルバム曲を供していた。『歌謡曲』という自著があるくらい、ずっと歌謡曲を愛してやまない林哲司にとって、誇り高い作品群であろう。

作曲の原点は加山雄三、映画やドラマの劇伴も魅力的

ソフィストティケート(洗練)されたメロディラインが “洋楽っぽい” などと評されることの多い林哲司の曲だが、そのルーツは加山雄三だったという。自らのバンド、ランチャーズを率いて颯爽と歌う加山雄三の姿をテレビで観て衝撃を受け、ポップスの作曲を志したそうだ。そう考えるとシンガーソングライターとしてのデビューも大いに納得がいく。

そんな林哲司が、デビュー以前、ヤマハの音楽スクールに通って、音楽理論を基礎から学んだことが作曲家として大成する足がかりになったことは確かであるけれども、併せて加山雄三の豊かな音楽センスも無意識のうちに継承していたのは間違いない。そして、弾厚作(加山の作曲ネーム)に森岡賢一郎という名アレンジャーがいたように、林哲司も萩田光雄や船山基紀、井上鑑、新川博ら優れたアレンジャー仲間に恵まれた。もちろん作曲と共にアレンジを自ら手がけた作品も多いけれども。

映画音楽では自らで主題歌も歌った『ハチ公物語』(1987年)や、人気映画シリーズのひとつ『釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪!』(2002年)などでも音楽を担当。個人的にはTBSで放映された『青が散る』や『くれない族の反乱』といったテレビドラマの音楽も印象深い。この辺りも実は1983年~1984年にかけての仕事だったりするわけで。その頃のアイドルで今も現役の歌手や俳優に向けての、“大人になった今だからこそ歌えるような楽曲” も聴いてみたい気がする。それはアイドル・ポップスの新たな進化形態といえるのではないか。林哲司が紡ぎ出す、耳にもハートにも心地よく響く音楽を時代はさらに必要としている。

カタリベ: 鈴木啓之

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