戦時下の動物園における大量の動物殺害、いわゆる猛獣処分はなぜ実行されたのか。ロングセラー絵本『かわいそうなぞう』は、次のように説明する。
―おりが こわされて、おそろしい どうぶつたちが まちへ あばれだしたら、たいへんなことに なります。そこで、ライオンも、トラも、ヒョウも、クマも、ダイジャも、どくを のませて ころしたのです―
列挙した生きものたちを「おそろしい どうぶつたち」と、ひと括りにしてしまうことに、違和感を持つ。彼らは自然の秩序に従って、自然に生きているだけだ。ほかの生きものを捕食するとしても、それはそのように生まれついたからだ。(本稿は4回続き、47NEWS編集部・共同通信編集委員=佐々木央)
■動物園の“原罪”には無関心
「おそろしい」と思うのは作者の勝手だが、わたしはそうは思わないし、これらの動物を動物園で見る人たちも、「恐ろしい動物たち」と決めつけてはいないと思う。
恐ろしいのは、その動物たちが街に逃げ出すことだが、それも彼らの責任ではない。動物たちを勝手に人間の世界に引き入れて、檻の中に閉じ込め、見世物にしているから、そのような事態を招くのだ。責任は人間にある。真に恐ろしいのは、人間であると言わなければならない。
絵本からは、こうした動物園の“原罪”のようなものに対する意識は感じられない。そのことが「逃げ出したら大変だから殺す」という人間中心の、短絡した論理につながっているのではないか。
絵本の記述はいよいよゾウの殺害に移る。
―三とうのぞうも、いよいよ ころされることに なりました。まず だい一に、いつも あばれんぼうで、いうことを きかない、ジョンから はじめることに なりました―
「ころされることに なりました」と、あくまでも主語を曖昧にする文体が続くが、ここでは事実経過に注目したい。
ジョンの殺害はいつだったのか。絵本のストーリー展開にしたがえば、ライオンやトラの後にジョンの殺害に着手したことになるが、実際はそうではない。上野動物園の正史というべき『上野動物園百年史』(1982年刊)は、次のように記す。
―オスのインドゾウ「ジョン」は、次第に凶暴となっていて、当時すでに、前肢をベレーと称する短い鎖で、行動の自由を制限されていたぐらいである。(中略)毒殺が計画され、8月13日から、ゾウのオス、ジョンの絶食がはじめられている―
■かわいいから延命させる
毒殺すると決めているのに、なぜ絶食させるのかといえば、腹ぺこなところに毒入りのえさを与えれば、いかに賢いゾウでも食べるだろうという計算だった。だが、ゾウは毒の入っていない馬鈴薯だけを食べ、毒入りは吐き出した。
問題の一つは、東京都長官・大達茂雄による処分命令が出る8月16日より3日前に、ジョンの殺害に着手していることにある。絵本はここでも、殺害の決定主体を明確にしないが、当時の園長代理・福田三郎は著書『実録上野動物園』(1968年刊)で次のように説明する。
―ジョンは性格が粗暴で、万一の場合は危険なので、前もって課長と相談し、絶食をさせていた―
課長とは都の井下清・公園緑地課長である(動物園は行政の公園部門に属していることが多い)。これと『百年史』の先の記述を併せ読めば、動物園と都の所管課長が相談し、命令に先んじて、自主的にジョンの殺害に着手したことが分かる。
『百年史』も他の記録も、都長官の命令に基づく猛獣処分で殺された27頭にジョンを含めるが、ジョンは猛獣処分とは別に殺されたとみるべきではないだろうか。
もう一つの問題はもっと本質的なことだ。ジョンを真っ先に殺す理由を、福田は「性格が粗暴で、万一の場合は危険」と言い、絵本は「いつも あばれんぼうで、いうことを きかない」からだという。
絵本はジョンと対比するように、メスのゾウ2頭について、こう描写する。
―この 二頭のぞうは、いつも、かわいい めを じっと みはった、こころの やさしい ぞうでした―
作者はこのあとに「ですから」という接続詞を置き、この2頭の延命努力は当然なのだという立場に、読者を誘導する。
―ですから、どうぶつえんの ひとたちは、この二とうを、なんとかして たすけたいと かんがえて、とおい せんだいの どうぶつえんへ、おくることにきめました―
3頭のゾウの命の選別を子どもたちにどう伝えるか、作者が悩んだ形跡はない。
■孤独な姿が示す尊厳
福田は『実録上野動物園』で「一番年齢が小さく、利口で芸が上手で、おとなしいトンキーだけは、なんとか殺さずにすまないかと考えていた」と書いている。メスのゾウ2頭の間にも、命の重さに違いがあったのだ。
ゾウの飼育係たちも福田と同じ思いだったらしい。ジョンは8月30日に餓死、ワンリーの死は9月11日、トンキーはさらに2週間後の9月23日に死んだ。トンキーが長く生きたのは、飼育係がこっそり餌や水を与えていたからだったという。
動物園の人たちは、人間の都合で飼育している動物に、自分たちの尺度を当てはめ、命を奪うかどうかを決めようとしていた。
暴れん坊で言うことをきかないゾウは、命令前に殺害に着手する。かわいい目で心の優しいゾウは、延命に力を尽くす。都長官によって、この命の選別は退けられ、平等に殺すという結果になった。
福田園長代理や井下課長は、トンキーを仙台に移送する計画を進めていた。その報告を受けたとき、都長官・大達は激怒したらしい。合理的な彼の頭には「かわいいゾウだけは生かす」という情緒的・差別的発想はなかったのだろう。
ジョンのことを思う。人間の言うことをきかないのは、人間におもねることをよしとしない孤高の魂ゆえか。人間への不信が積み重なったためか。理由がなんれであれ、ジョンの孤独に、野生動物の侵しがたい尊厳を見る。
戦前の日本社会では、ゾウだけでなく人間も同じようにされた。天皇の名のもとに行われる戦争に反対したり、人を殺したくないと徴兵を拒否したりすれば、その思想や行動を放棄するまで拘禁され、痛めつけられた。獄死した人もいた。
『かわいそうなぞう』がそれを意図したとは思えないが、ゾウたちの運命に、当時の人々の姿を重ねて見ることもできるだろう。
では、いまはどうか。命は等しく大切にされ、尊重されるようになったといえるだろうか。学校や会社や地域やSNSで、異端とみえる人や少数者がいじめられたり、排除されたりしてはいないだろうか。コロナ禍のいま、そうした傾きはますます強くなっていないだろうか。
ゾウの命の選別を描く絵本が、長く、広く、支持されているとすれば、わたしたちの危機は深い。=終わり