コロナ禍で好タイム続出の怪。セイコー陸上“9秒台連発”期待できる、専門家分析3つの理由

新型コロナウイルス感染拡大に伴いシーズン中断が余儀なくされていた陸上界が本格的に動き出した。8月23日、東京・国立競技場で開催されるセイコーゴールデングランプリ陸上2020東京の男子100mには桐生祥秀、小池祐貴、山縣亮太、多田修平、ケンブリッジ飛鳥ら有力選手がそろって出場。物理学や解剖学、生化学などの観点からランニングフォームを科学的に解析しているランニングコーチ、細野史晃氏は、「豪華メンバー、世界を取り巻く状況、複数要因が重なってこのレースが“日本史上最速”のレースになる可能性が高い」と語る。

(解説=細野史晃、構成=大塚一樹[REAL SPORTS編集部]、写真=GettyImages)

9秒台を出せる選手が複数 かつてない黄金時代の到来

「コロナ禍の開催ということもあって国内選手だけの参加ですが、ものすごいメンバーが揃いました」

セイコーゴールデングランプリは例年、海外の有力選手が招待される大規模な国際レースとして陸上ファンが楽しみにしている大会だ。中でも、近年日本人のタイムが飛躍的に向上している100mは、勝負の上でも記録の上でも大きな期待がかかる。

「昨年は、桐生祥秀選手がアテネの金メダリスト、ジャスティン・ガトリン(アメリカ)を相手に0.01秒を争う好レースを展開。敗れはしましたが、10秒01を記録。小池祐貴選手も10秒04で4位に入るなどスタンドを沸かせましたが、今年は外国人抜きでさらなる記録が期待できそうです」

フロリダ大学に在学中で、現在は現地のプロクラブで練習している現日本記録保持者(9秒97)、サニブラウン・ハキームは不在だが、歴代2位の9秒98のタイムを持つ桐生祥秀、小池祐貴の両名、10秒フラットの山縣亮太、10秒07の多田修平、10秒08のケンブリッジ飛鳥と、自己ベストを見ると世界レベルのスプリンターが勢ぞろいしている。

「1998年に伊藤浩司さんが10秒00を記録していますが、2000年代は10秒台で記録が停滞。2010年代になって一気に9秒台に突入し、日本人の100mの選手層の厚さは世界でもトップクラスといっていいレベルに達しています」

細野氏によれば、自己ベストやシーズンベストを比較してもアメリカ、ジャマイカ、次いで日本というくらい選手層が厚く、この躍進ぶりは4×100mリレーの結果にも表れているという。

「今回のセイコーゴールデングランプリでは、名前を挙げた5人の選手はすべて9秒台を出せる可能性があり、複数の要因から2人、3人と10秒を切ってくることもあり得ます」

記録の上でも楽しみな“日本史上最速”レースだが、細野氏がこのレースに記録更新の期待をかけるのは、メンバーの充実だけではない。

コロナ禍が影響? 陸上界で起きている不思議な現象

「実はコロナ禍による中断を経た競技再開後、陸上界では好記録が多数生まれるという不思議な現象が起きているんです」

世界規模で行動の規制、自粛が当たり前となったコロナ禍にあって、陸上界も最大のビッグイベント、オリンピックはもちろん、あらゆる競技会、記録会が中止や延期を余儀なくされた。日本でも6月に行われる予定だった日本選手権が10月に延期となったが、世界中の選手たちが“真剣勝負”の場を一斉に失った。

「レースがなくて体がなまってしまうという声もあったのですが、徐々に大会が開催されるようになった現在、多くの競技で記録の向上が見られるんです」

8月14日に行われたワールドアスレティックス(世界陸連)が主催するダイヤモンドリーグの開幕戦では、男子5000mでジョシュア・チェプテゲイ(ウガンダ)が16年ぶりに世界記録を更新。国内でも7月に行われたホクレン・ディスタンスチャレンジ2020で、女子3000mの田中希実が18年ぶりに日本記録を更新するなど、世界中の選手たちが好記録を連発している。

「トップ選手にとっては、この期間が単なるブランクではなかったということでしょうね。試合数が少ないことが、しっかりと記録を狙える余裕につながった。コンディショニングの部分と試合への渇望感、走れる楽しさが先行していること、そしてそれをライバル同士やファンも共有していることが影響しているのではないでしょうか」

この「不思議な効果」がセイコーゴールデングランプリでも発動する可能性は大いにある。細野氏は、中断期間によって日本の陸上シーズンの構造的な問題点が強制的に是正される可能性にも言及する。

「そもそも日本の陸上シーズンが長すぎるのではという疑問もあります。特に学生は試合が多すぎる。昨シーズン、小池選手がシーズン後半に調子を落としたのは、アジア選手権でフル稼働後に欧州転戦と、常にトップギアで試合に出続けたことが原因でしょう。反面、桐生選手は世界陸上に向けて試合数をコントロールしながらガス欠を起こさないようにしていました。サニブラウン選手もアメリカでの学生対抗試合での疲労を考慮して、日本選手権後は世界陸上までにレースは出ていません」

標準的なカレンダーでは、3月から4月にシーズンインして、5月に地域実業団大会、6月に日本選手権、8月に世界選手権、10月に国体や全日本実業団と1年を通して試合に出場し続け、トップ選手は世界大会を転戦するという日本陸上界の環境では、どうしてもエネルギーが分散する。

「スケジュール、コンディション、モチベーションの意味合いからも、今大会は有力5選手全員が9秒台の争いを演じるという世界陸上、オリンピックの決勝のようなレースになることだってあり得ます」

課題を克服し、殻を破ったケンブリッジ飛鳥がさらなる混戦を呼ぶ

5人の選手の中で細野氏が注目すべき選手の筆頭に挙げたのは、タイムと最近の実績では他の選手と比べて見劣りする感が否めないケンブリッジ飛鳥だ。

「たしかに2016年以降は大きな活躍もなく本人も忸怩(じくじ)たる思いがあったと思いますが、7月下旬に開催された東京陸上競技選手権大会でのケンブリッジ選手の走りは“完全復活”、さらなる進化を期待させるものでした。今までは上半身が先行しがちで、下半身の動作とかみ合う動きができていませんでした。クラウチングスタートではないリレーのときは上半身と下半身の連動がしやすいのか、比較的いいフォームで走ることも多かったのですが、100mではスタート時で上半身が先行、腰が遅れて後半にスピードに乗れずに失速するというパターンが多かった」

東京選手権では10秒22、優勝という結果以上に上半身と下半身のタイミングが合致し、しっかり加速して最後までいい流れで走ることができたのが大きいという。

「この動作の感覚のまま走りが洗練されていけばライバルたちに後れをとっている9秒台も十分に狙えます。このレースの台風の目になるのは間違いないでしょう」

ケンブリッジ飛鳥の復活で大混戦となったレースの大本命は、やはり日本人初の9秒台ランナー、桐生祥秀。細野氏は、フォームの変化で自己ベスト、日本記録更新も期待できると分析する。

「海外選手のようなダイナミックな走りに変化しています。フォームがより大きく力強くなったのですが、フォーム変更後すぐに、あわや9秒台という走りを見せている点は驚き。レースで徐々にフォームをアジャストして記録を出すという通念を覆す走りでした」

「9秒台間近」と目された2019年に肺気胸と診断されて以来の復帰初戦となる山縣亮太も「故障明けに必ず一回り強くなって復帰してくる逸話を持つ」(細野氏)だけにモチベーション、思いの強さでは特筆すべきものがある。さらに9秒ランナーの一人、小池祐貴も休養十分。2019年、ドーハで行われた世界陸上の4×100mリレーで小池に代わり快走を見せた多田修平も「このレースでなにかをつかんだのでは」(細野氏)と独特の高回転数走法に自信を取り戻しつつある。

レース前の記録の上でも日本史上最速のメンバーが集まったセイコーゴールデングランプリ陸上2020東京。さまざまな要因が重なり白熱の勝負、9秒台の戦い、そしてその先に日本記録の更新も見えてくる。本来なら今夏に東京オリンピック100mの決勝が行われるはずだったトラックで繰り広げられる日本短距離界歴代最高レベルのレースに注目だ。

<了>

[PROFILE]
細野史晃(ほその・ふみあき)
Sun Light History代表、脳梗塞リハビリセンター顧問。解剖学、心理学、コーチングを学び、それらを元に 「楽RUNメソッド」を開発。『マラソンは上半身が9割』をはじめ著書多数。子ども向けのかけっこ教室も展開。科学的側面からランニングフォームの分析を行うランニングコーチとして定評がある。

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