ロックを選んだ漫才師、ビートたけしとロッド・スチュワートの意外な接点 1981年 8月23日 ツービートの「オール・ライブ・ニッポン」が日比谷野音で開催された日

ツービートのフリーコンサート「オール・ライブ・ニッポン」

39年前の1981年8月23日日曜日、高1で16才の僕は日比谷野外音楽堂にいた。

翌1982年に改修される前の2代目の野音。キャロルの解散コンサートやキャンディーズの解散宣言のあったあの野音だ。僕はツービートのフリーコンサート『オール・ライブ・ニッポン』を観に来ていた。これが僕のコンサート初体験だった。

ご多分に漏れず僕も、この年始まった『ビートたけしのオールナイトニッポン』でたけしのファンになった。それまで聞いたことのない、まさに弾丸トーク、あけすけな下ネタ、毒ガス等に僕はあっという間に夢中になってしまった。何せ初めて聞いたのが「たまきん全力投球」全盛期の回である…

漫才ブームとはいえ、漫才師のファンと名乗ることには、まだまだ勇気の要る時代であった。しかし熱き想いは止まず、フリーコンサートということもあり、“生たけし” を観ようと僕は野音まで足を運んだのであった。

1091番めに入場した僕は、後ろ寄りのイス席に陣取った。男女比は半々。イス席はすべて埋まり立ち見も出ていた。

ビートたけしの一番弟子・そのまんま東の前説、山田邦子の場内アナウンスがあって18時開演。ツービートの漫才、片岡鶴太郎の繋ぎ、ビートきよしの演歌コーナー、山田邦子の繋ぎと続き、いよいよ本命ビートたけしが登場。まずは『オールナイトニッポン』よろしく、たけし単独のトークが繰り広げられた。

スプリングスティーンやロッド・スチュワートの曲をカバー

そしてバンドを従えて歌のコーナーが始まる。ビートたけしが選んだのはロックだった。

ツービートはこの年の7月にデビューアルバム『目標百萬枚』をリリースしていた。シングルでもリリースされた加瀬邦彦作曲の佳曲「いたいけな夏」、「Way Alone」等に交じって披露されたのが、前年1980年のブルース・スプリングスティーンのヒット曲「ハングリー・ハート」。ビートたけしのお気に入りの曲だった。

この曲は好きだったので、たけしと趣味が合った気がして嬉しかった。そしてこの夜、僕はたけしから新たな曲を教わるのである。

それは「ホット・レッグス」。ロッド・スチュワートの1977年のシングルにもなったタイトル通り熱きロックナンバーである。ビートたけしのビブラートの効いた歌声には率直に言って賛否両論があったが、シャウトは力強かった。初めて聴く曲ながら、ヴォーカルに込められた色気も含め魅力的な曲だったことは今でも仄かに記憶がある。

そして僕の日記にも記述が無くネットでも調べが付かなかったのだが、やはりロッド・スチュワートの1975年の大ヒット曲「セイリング」も歌われていたと記憶している。2曲も取り上げられたロッド・スチュワート。当時のビートたけしの髪形が実はロッドを意識したものであると知ったのは後の事である。

2度のアンコールに応えたビートたけし、これぞロック!

ビートたけしが歌い終わったのが19時半。トークもあったが1時間半で終わってしまった。当然場内からはアンコールを求める歓声。少し経ってたけしが登場、場内は総立ちになった。初体験の総立ちに僕もロックを感じて胸が高まる。「いたいけな夏」ともう1曲が歌われ、アンコールが終わった。

観客の多くは出口に向かい始めた。しかしここで一部の観客からアンコールの声が再び上がる。するとビートたけしが今度はすぐにステージに出てきた。僕も含め観客は一斉にステージ前方に向かう。遂には不安定な椅子の上に乗る観客が僕を含め続出。僕はたけしにこの夜最接近した。

3度めの「いたいけな夏」と、たけしが一番好きな曲と言っていた恐らくは「ホット・レッグス」の2曲で観客は頭の上で手を叩いていた。これをロックと言わずして何とする。それは未だ市民権を得ていなかった “漫才師のファン” の少しだけ鬱屈した感情が爆発した瞬間だったかもしれない。こうして僕のロックライヴへの扉は開かれたのである。

この夜のコンサートの模様は、他の会場での録音とまとめられ、この年の11月21日に『ツービート・オール・ライブ・ニッポン』としてリリースされた。漫才とトークも収められ、ツービート2人の歌はB面の後半半分を占めるに過ぎない。

ビートたけしの歌は「ハングリー・ハート」「ホット・レッグス」「いたいけな夏」の3曲が収められている。

※2017年8月23日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 宮木宣嗣

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