内田篤人が魅せられた『SLAM DUNK』ある選手のプレー。サイドバック転向の知られざる秘話

8月20日夕方、それは突然の知らせだった。「内田篤人、現役引退――」。

17歳で名門・鹿島アントラーズのレギュラーを勝ち取り、海を渡っては世界最高峰の舞台UEFAチャンピオンズリーグで日本人最高のベスト4にまで駆け上がった。日本サッカー界の歴史に名を残す“サイドバック”といって過言ではないだろう。もともとはフォワードや攻撃的な中盤でプレーしていた男にサイドバックへのコンバートを命じた、清水東高時代の恩師・梅田和男監督は、なぜその英断を下したのだろうか――?

(文=藤江直人、写真=Getty Images)

17歳のころから見せていた、時代を先取りするサイドバックのプレー

右タッチライン沿いをグングンと加速しながら駆け上がっていく。攻め上がった先の敵陣で、多彩なテクニックを駆使する。そして、味方を生かすプレーを含めたゲームメーク能力にも長けている。

32歳の若さで惜しまれながら引退した内田篤人は、ワールドスタンダードのサイドバックに求められるこれらの要素を、清水東高から鹿島アントラーズに加入した2006年の時点ですでに兼ね備えていた。

Jリーグの舞台でデビューを果たし、伝説の第一章をスタートさせたのは2006年3月5日。高卒ルーキーとして開幕戦の先発に名前を連ねた、アントラーズ史上で初めての選手となった内田は1988年3月27日の早生まれであり、敵地でサンフレッチェ広島戦に臨んだときは17歳だった。

ホームの県立カシマサッカースタジアムで対峙したヴァンフォーレ甲府戦で、プロ初ゴールを決めた3月21日の時点でもまだ17歳。やや華奢(きゃしゃ)に映る身体に搭載されていた稀有(けう)な能力が、瞬く間に解き放たれていった軌跡にあらためて驚かされると同時に、素朴な疑問も頭をもたげてくる。

いま現在は本田圭佑が所属するボタフォゴを率いる、当時のパウロ・アウトゥオリ監督らの首脳陣を魅了したプレースタイルをいかにして習得したのだろうか。

高2の春、清水東の恩師・梅田和夫監督に告げられたコンバート

そもそも、清水東へフォワードとして入学していた内田は、実はサイドバックというポジションにややネガティブなイメージを抱いていた。

「えっ、ディフェンスもしなきゃいけないの、という感じでしたね」

サイドバックへの第一印象をこう語ったことがある内田のサッカー人生をさかのぼっていくと、高校3年生に進級する直前の2005年春にターニングポイントを迎えている。サイドハーフからのコンバートを告げられた瞬間を、24日にオンラインで開催した引退会見で内田はこう振り返った。

「『内田』と書かれている磁石のマークが、サイドバックの位置にあったので。あっ、僕はこれからここでプレーするんだな、と。特に質問をすることはなかったですね。点が取れないからサイドバックになった、という印象を最初は受けていました」

清水東を率いていた梅田和男監督(現・静岡城北高監督)はどうか。当時の決断を「とてもじゃないけど、プロに行く感じではなかったんですけど」と苦笑いとともに振り返ってくれたことがある。

「サイドバックに転向させたのは、前方に距離とスペースがあった方が(内田)篤人にとって余裕ができると思ったからです。守備はそれほどうまくなかったけど、相手に抜かれても追いつくスピードがあったので大目に見よう、と。ダメなら元のポジションに戻せばいい、と考えていたんですけど」

全国高校サッカー選手権を制した実績を持つ名門で、当時の内田はエースナンバーの「10番」を背負っていた。ただ、敵陣で1対1になっても抜くことができず、味方へのパスコースも見つけられず、やがては相手のプレッシャーに負けてしまう――といった悪循環が繰り返されていた。

伸び悩んでいた要因を、梅田監督は内田のシャイな性格にあると見ていた。例えば、2004年に招集されたU-16日本代表候補合宿。早生まれの選手を対象とした、初めての試みとなる特別プロジェクトを終えた内田は、練習以外の時間で「部屋から出られませんでした」と梅田監督に報告している。

詳しく事情を聴けば、周りの子どもたちがみんなうまく見える、同じ年齢のはずなのにみんな年上に見える、という言葉が返ってきた。清水東に赴任して1年がたった1998年春にジュビロ磐田へ送り出した、FW高原直泰が放っていたオーラと比べながら梅田監督は再び苦笑いした。

「日本代表になる子どもは高校生のときから独特の雰囲気を持っていて、高原も集団の中では飛び抜けた存在でした。でも、篤人にはそれがまったくない。集団の中に入ると目立たないので、探さないとわからない。どこにでもいるような、本当に普通の子どもだったんです」

バスケ好きの内田が自身のプレーとダブらせたのは『SLAM DUNK』の……

もっとも、内田には入学した時点で周囲と一線を画す、50m走で6秒を切る際立つスピードを持っていた。父親の静弥さんが中学校で体育教師を務め、母親の澄江さんも陸上短距離の経験者。受け継がれたDNAは姉と妹も陸上選手だった、スポーツ万能一家を生み出していた。

さまざまな選択肢があった中で、内田は同じ静岡県出身で、黎明期のJリーグでまばゆい輝きを放っていたFW三浦知良に憧れてサッカーに魅せられた。そして、函南中で担ったフォワードから攻撃的な中盤として頭角を現した清水東高で、独特の感覚を抱きながらプレーしていた。

「僕、バスケットボールが好きなんです」

内田がこんな言葉を残してくれたのは、アントラーズで4年目を迎えていた2009年の初夏だった。前人未到のリーグ戦3連覇を目指す常勝軍団で、右サイドバックとして代えのきかない存在感を発揮。岡田武史監督に率いられる日本代表でも常連となっていた内田は、父親の静弥さんが学生時代から興じていた、サッカーとはまったく異なるスポーツに自身の姿をダブらせていた。

「だから、パスを出すプレーや攻撃の起点となるところで、バスケのポイントガードっぽいかな、と。漫画の『SLAM DUNK』が好きで、宮城リョータくんを意識している。僕がうまく周りを生かすことができれば、という感じですね」

1990年代に『週刊少年ジャンプ』誌上で連載され、空前の大ヒットを記録した『SLAM DUNK』で、主人公の桜木花道が所属する神奈川県立湘北高校バスケットボール部のポイントガードが宮城リョータだった。小柄ながら、コート上では誰よりも速い選手という設定で描かれていた。

俊敏性と戦術理解度の高さが求められる司令塔、ポイントガードのイメージをサッカーのピッチで具現化した。全体を俯瞰する感覚はポジションを1列下げた、サイドバックになっても変わらない。むしろ前方にスペースがある点で、武器でもあるスピードも存分に生きる相乗効果が生じた。

残念ながら清水東での3年間はインターハイ、高校選手権と全国の舞台に無縁のまま終わりを告げた。それでも「10番」を背負った右サイドバックは、スピードとテクニック、インテリジェンスが融合されたプレースタイルと相まって異彩を放ち、Jクラブからも注目される存在となった。

2年生の段階で練習参加したアルビレックス新潟を含めて、内田の獲得に名乗りをあげたのは7クラブに達した。地元静岡の清水エスパルスとジュビロ磐田に加えて、名古屋グランパス、ヴィッセル神戸、コンサドーレ札幌(当時)、そしてアントラーズの練習に参加していった。

もっとも、当時の内田は静弥さんの背中に憧れ、体育教師になる夢も描いていた。清水東への進学を希望したのも強豪校であると同時に、県内有数の進学校であることが理由だった。しかし、各クラブでプロの世界を体験していくたびに、大学進学に傾いていた心境に変化が生じてくる。

鹿島の名スカウトの目利き「中盤の選手のままだったら……」

「このチームでならば、たとえ試合に出られなくても自分が成長できそうな気がします」

梅田監督のもとに電話で連絡が入ったのは、内田がアントラーズへの練習参加を終えた直後だった。クラブハウスなどの施設を含めて、サッカーに集中できる環境が整っていただけではない。現役最後の試合となったガンバ大阪戦後に、県立カシマサッカースタジアムで行われた引退セレモニー。必死に言葉を紡いだスピーチで言及したアントラーズのイズムに、17歳の内田は胸を打たれたはずだ。

「鹿島アントラーズというチームは数多くのタイトルを取ってきた裏で、多くの先輩方が選手生命を削りながら、勝つために日々努力する姿を僕は見てきました――」

当時のアントラーズは年齢的な衰えを隠せなくなっていた元日本代表の右サイドバック、名良橋晃の後継者探しが急務になっていた。クラブが求めていた条件は4つ。まずはスピードがあり、自分でチャンスをつくり出すことができて、上下動を繰り返せるスタミナがあり、攻め上がった先でタメもつくり出すことができる。すべてを満たしていた内田は、まさに理想的な存在だった。

アントラーズのスカウト担当部長を務めている椎本邦一氏は「サイドバックならば誰でもいい、というわけではなかった」と語ったことがある。その上で内田を迎え入れるにあたって、梅田監督にはこんな育成ビジョンを示している。

「守備を含めて、3年をめどにトップチームの試合に出られるように鍛えます」

期待はいい意味で裏切られた。キャンプでアウトゥオリ監督に見初められた内田は、名良橋がけがで出遅れた状況もあって開幕のサンフレッチェ戦の先発を射止める。3月1日に行われた清水東の卒業式で「しばらくは辛抱だぞ」と梅田監督に送り出されてから、わずか4日後に果たされた快挙だった。

椎本氏にあえて聞いたことがある。もしも内田が中盤の選手のままなら、アントラーズとしてはどうしていたでしょうか、と。椎本氏は苦笑いしながら、首を横に振っている。

「だったら……(加入は)難しかったですね」

時代を先取りするような右サイドバックだったからこそ常勝軍団アントラーズの一員となり、2010年夏には独ブンデスリーガの強豪シャルケへ移籍。日本人選手として最高となるUEFAチャンピオンズリーグのベスト4の戦いを経験し、日本代表としても一時代を築き上げた。

恩師のアドバイスに、かたくなに首を横に振り続けたこと

ディフェンスも求められるポジションに最初は抱いていた、ややネガティブなイメージが時間の経過とともにどんどん好転。程なくして「もうここでしかプレーできない」と天職のように感じられるようになった右サイドバックを、引退会見の席で内田はこう語っている。

「やってみると面白いポジションで、誰にでもできるんだけど難しい。外から(ゴール前を)見る感じであるとか、相手がプレッシャーをあまりかけてこない状況で、少ない選択肢の中からゴールにつなげるチョイスをするのが、僕には合っていたのかなと思っています」

もっとも、シャイな性格にも起因した伸び悩み状態から何とか上向きに転じさせ、天性のスピードを生かしたいと思案した梅田監督のアドバイスに、内田が首を横に振り続けたことが一つある。

内田が生まれ育った函南町は静岡県東部にあり、熱海市や神奈川県箱根町と接している。自宅の最寄りだったJR函南駅の始発となる午前5時40分に、東海道線の下り浜松行きに乗った内田は清水駅まで1時間揺られ、駅前に駐輪していた自転車で約1km先の清水東高へ向かうのが日課だった。

「通学があまりにも大変なので、清水に下宿するなり、アパートを借りるのはどうですかとご両親に相談したこともあります。ただ、自宅に帰ることで篤人がホッとしている部分もあるので、限界までやらせたいと言われました。結局、最後までもっちゃいましたよね」

クールに映る表情の内側に力強く脈打つ、一度決めたらテコでも動かない頑固者であり、なおかつ熱血漢でもある素顔。内田の本当の姿が「プロになる前にそれぞれ大事な人に巡り会うと思うけど、僕の場合はそれが梅田先生でした」と、いまも恩師と慕う梅田監督の述懐からも伝わってくる。

「サッカー人生で後悔していることはあるか?」

日本中を驚かせた電撃的な引退理由を、アントラーズのイズムを体現してきた先輩たちの姿に言及した前出の引退セレモニー内のスピーチで、内田はこう説明している。

「――僕はその姿を…………いまの後輩に見せることができないと、日々練習していく中で身体が戻らないことを実感し、このような気持ちを抱えながら鹿島アントラーズでプレーすることは違うんじゃないかと、サッカー選手として終わったんだなと考えるようになりました」

2015年6月にメスを入れた後に長期のブランクを強いられ、内田をして「技術的なものよりも、運動能力が落ちたかなと思う」と言わしめた右膝が、結果的には選手生命を縮めた。重度の炎症を起こしていた右膝の膝蓋(しつがい)腱の痛みをさかのぼっていけば、右太腿に手術を勧められるほどの大けがを負いながら、保存療法を選んで何とか間に合わせた2014年のFIFAワールドカップ・ブラジル大会に行き着く。

代表入りしながら出場機会がなかった2010年の南アフリカ大会と異なり、グループステージ敗退を喫したザックジャパンの中で孤軍奮闘した、鬼気迫るプレーはいまもファン・サポーターの記憶に焼きついている。その2014年夏を境に、対照的な姿が描かれているからか。引退会見ではこんな質問も飛んだ。ここまでのサッカー人生で、後悔していることはないのでしょうか、と。

「考えればあると思いますけど、考えないようにしています」

自らの意思で描いてきた太く、短い軌跡に誇りを持っているからこそ、内田はあえて過去は振り返らない。持って生まれたスピードとテクニック、そして特異な感性だけではない。少年時代からいまも変わらずに抱き続ける頑固さと熱さもまた、うまいだけでなく誰よりも激しく闘える歴代最高の右サイドバックとして、ファン・サポーターの記憶の中で内田を永遠に光り輝かせていく。

<了>

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