80年代の井上陽水「ライオンとペリカン」官能を刺激する濃密で淫靡な世界 1982年 12月5日 井上陽水のアルバム「LION & PELICAN」がリリースされた日

時代を牽引したアーティスト、井上陽水

1969年にアンドレ・カンドレの名前でレコード・デビューした時には大きな反響を得ることはできなかったが、1972年に井上陽水として再デビューして、「傘がない」をはじめヒット曲を連発、『氷の世界』(1973年)を日本初のミリオンセラーアルバムとするなど、トップアーティストとして大活躍。さらに、1975年には日本初のアーティスト主導によるレコード会社、フォーライフレコードの立ち上げに、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等とともに参加するなど、時代を牽引する活躍を見せていった。まさに、レジェンドアーティストだ。

ちょうど、70年代前半の “フォーク台頭期” に脚光を浴びたこともあって、当時は彼もフォーク畑のアーティストと見られていた。しかし、そんな井上陽水に対する先入観は、時を経るに従って大きく変化していった。それに気づいたのが80年代に入ったころ。その作品の中にフォークの概念を超えるような変化が顕著にみられるようになっていったのだ。

80年代の井上陽水、サウンド面での新しいアプローチ

デビュー以来、井上陽水はコンスタントに作品をリリースしていて、アルバムもほぼ1年1作のペースで発表していた。しかし80年代に入る頃に、サウンド面の新しいアプローチが目立つようになっていく。

例えば、『EVERY NIGHT』(1980年)では、それまで陽水サウンドのメインアレンジャーだった星勝がまったく参加せず、鈴木茂、井上鑑にサウンドづくりが委ねられた。さらに、翌年の『あやしい夜をまって』(1981年)では星勝、鈴木茂、矢野誠、安田裕美ら、多彩なアレンジャーに混じって、「Yellow Night」の編曲に川島裕二が起用されていることが目を惹く。当時、川島裕二はまだインディーズシーンで台頭しつつあった新進キーボード奏者で、メジャーアーティストが、彼を編曲に起用することはかなりの冒険だった。

しかし、井上陽水は、続く『LION & PELICAN』(1982年)でも4曲の編曲を川島に任せ、『バレリーナ』(1984年)ではほぼ全曲を川島(名義はBANANA)に委ねている。こうした大胆なアレンジャーの起用によって、井上陽水の楽曲はサウンドのテイストを広げるだけでなく、楽曲そのものの訴求力が大きく変わっていったという印象があるのだ。

濃密で淫靡、シュールな味わいのアルバム「あやしい夜を待って」

『あやしい夜をまって』を初めて聴いた時、僕が強く感じたのが、これはおそらくこれまで日本のシンガーソングライターが描いたことのない “歌の世界” なのではないか、という感覚だった。アルバムの1曲目に収められていた先行シングル曲「ジェラシー」をはじめ、そこにあったのはなんとも濃密で淫靡なムードたっぷりのアダルティな世界だった。

もともと、フォークは若い世代の社会に対する想い、恋や生き方の悩みなどをテーマにしたメッセージソングという色合いが強かったし、井上陽水の「傘がない」「心もよう」などのヒット曲も、メッセージソングとして受け取られていた。しかし、当時から彼の楽曲にはさまざまなタイプのものがあり、「夢の中へ」のように起承転結も明確でないシュールな味わいの曲も少なくなかった。それでも “フォーク歌手” というイメージが先行していた70年代には、井上陽水の楽曲の特殊性はあまり意識されてはいなかったのではないかと思う。

しかし、『あやしい夜をまって』では、多彩になったサウンドが、井上陽水の楽曲の特異性を、よりダイレクトに伝えているという気がしたのだ。

その魅力から離れられなくなる「LION & PELICAN」の中毒性

そんな、シュールで感覚的な表現の世界が、続く『LION & PELICAN』(1982年)ではさらにエスカレートしていった。1曲目の「とまどうペリカン」から、どこか非現実的な感覚をもった世界が展開されていく。キャッチ―なメロディ、そして魅惑的な歌声に理屈抜きに引き込まれていく。しかし、歌われるそれぞれの言葉は鮮やかに印象に残るのに、実は物語がどう展開していくのかも、この歌はなにを言おうとしているのかも漠然としていてよくわからない。それなのに、聴き手の中で言葉たちが勝手に奔放なイメージを広げていく。そんな、まるで霞の中で不思議な妄想を掻き立てていく。そんな印象をどこか前衛的な匂いのあるサウンドがさらに掻き立てていく。

そのハイライトともいうべき曲が、井上陽水が沢田研二に提供した曲のセルフカバーである「背中まで45分」だ。ふと出会った男と女が出逢って結ばれるまでが時間経過とともに描かれている。こんなことを歌った曲は、おそらく日本で初めてだと思う。沢田研二のテイクもセクシーだったけれど、この陽水バージョンもとてつもなくエロティックだ。

その他の曲たちも、官能的だったり、あるいは思索的だったり、暗示的だったりと、どれも一筋縄ではいかない存在感を示している。捉え方によっては難解な作品なのだけれど、聴いてみると理屈を超えた説得力が感じられる。だから、一度その魅力を知ると離れられなくなってしまう中毒性を持っているのだ。

井上陽水の80年代における功績

『あやしい夜をまって』『LION & PELICAN』は、まさに青年期を過ぎて大人になった感性、そして官能を深いところで刺激するエモーショナルなサウンドアートともいうべきアルバムだと思った。

これらの作品によって、それまで誰もが試みることのなかった “音楽の可能性” を示したこと。これもまた、見逃すことができない80年代の井上陽水の功績なのだと思う。

80年代の井上陽水は、この他にもアルバム『9.5カラット』でセルフカバーのムーブメントを起こすなど、注目すべき動きを残している。これらの動きについても、機会を改めて触れてみたい。

カタリベ: 前田祥丈

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