高校野球の純粋さ、ひたむきさを訴え続けた福嶋一雄氏 アマ野球界に残したもの

旧制小倉中で夏連覇を果たした福嶋一雄氏が89歳で逝去

甲子園の土を最初に持ち帰ったとされている福嶋氏

夏の甲子園大会で連覇を果たし、1948年夏には5試合45イニングを完封するという大記録を打ち立てた福嶋一雄氏が89歳でこの世を去った。

福嶋氏が地元福岡県小倉市(現北九州市)の福岡県立小倉中等学校(旧制)に入学したのは、1945年の春だった。すでに日本は敗色濃厚。小倉も前年6月に大空襲を受けていたが、後年の調査によれば、アメリカ軍は、広島、長崎とともに軍需工場が多い小倉にも原爆を投下する予定があったという。日本は、この年8月15日に連合軍に無条件降伏をしたが、少しタイミングがずれれば小倉も原爆の災禍に見舞われた可能性があったのだ。

終戦直前に中等学校に入学した福嶋氏は、野球部に入る。すでに高等小学校時代から野球経験があったが、肋膜炎で1年休学したこともあり、体力づくりのために始めたものだった。終戦直後の日本では、将来は全く見えなかった。当時の球児たちは、この時期に野球をすることが、どんな未来につながるかは全くわからなかったはずだ。そもそも野球道具もグラウンドもなかった。

しかし、小倉中等学校はすぐに野球の練習を始めることができた。先輩たちが、戦争が激化する中で「必ず野球ができる平和な時代が再び来るに違いない」と考え、バットやボールを密かに学校内に保管していたのだ。先輩たちの配慮によって、終戦直後の物資がない中で、小倉中等学校の野球部員たちはすぐに練習を再開することができた。

小倉中等学校は、戦前から好投手を輩出してきた名門だった。戦時中の末吉俊信は、サイドスローでカーブやシュートを駆使した技巧派。のち八幡製鉄、早稲田大を経て毎日で投げている。福嶋氏も小柄だったが、サイドスローから緩急を活かした投球で打者を打たせて取る好投手だった。

1947年は春夏の甲子園に出場、夏は一人で5試合を投げぬいて優勝

1946年には夏の甲子園に出場、1947年は春夏の甲子園に出場、夏は一人で5試合を投げぬいて優勝。一躍その名を知られるようになる。しかし、当時の日本は、まだ終戦後の混乱の中にあり、甲子園で活躍したからといって、プロ野球や社会人野球などの将来が開けたわけではなかった。

福嶋氏は「先輩たちが残してくれた野球道具で野球ができる嬉しさに、夢中でプレーしただけ」と語っている。ユニフォームはごわごわの素材で、首のあたりが擦れて痛かったという。また食糧に乏しい時代だけあって、甲子園には球児が各自で米を持参し、宿舎で炊いてもらった。勝ち進むと持参した米も乏しくなったが、負けたチームの選手たちが米を譲ってくれてしのぐことができたという。

1948年春の大会は1回戦で京都一商に延長13回2-3で惜敗した。この年の4月1日から学制改革が実施され、小倉中等学校は小倉高等学校となった。また旧制中等学校は5年制だったが、新制高等学校は3年制。福嶋氏は過渡期の生徒として、1949年まで5年間在籍した。

この年の夏は、地方大会から甲子園まで11試合をすべて投げぬいた。甲子園では5試合すべて完封勝利。45イニング無失点の大記録を樹立する。これは1939年夏の和歌山・海草中の嶋清一の記録に並ぶ甲子園記録だ。しかし、福嶋氏は気負うことはなかった。後年「私はどちらかと言えば打たせて取る投手。バックを信頼して投げただけ」と淡々と語っている。なおこの大会から古関裕而作曲の「栄冠は君に輝く」が、大会歌として歌われるようになった。

日本野球連盟理事・九州地区連盟理事長として、アマチュア球界の発展に貢献

1949年は、夏3連覇がかかっていたために、注目の的となったが、準々決勝で倉敷工に延長10回6-7で敗退した。この試合の後、福嶋氏は甲子園の土をひとつかみズボンの後ろポケットに入れて持ち帰った。一説には1937年夏の甲子園の決勝戦で敗退した熊本工業学校の川上哲治(のち巨人)が、甲子園の土をポケットに入れたのが最初ともされるが、福島氏のこの行為が話題となって、以後、敗退した球児が甲子園の土を持ち帰る習慣が定着した。福嶋氏は「最上級生だったので、もう甲子園に来ることができないかと寂しく思って持ち帰ったまで」と語っている。土は自宅の植木鉢に撒かれて、今も残っているという。

福嶋氏はこの時期には右ひじを故障し、痛みと戦いながらの登板になっていた。早稲田大学では1歳下の石井連蔵とともに4回の優勝に貢献、卒業後は八幡製鉄に進んでエースとして都市対抗野球でも優勝に輝いたが、全盛期は小倉高校時代だといってよいだろう。

福嶋氏は戦後の高校野球の「あるべき姿」を示した存在だったと言えよう。バックを信じて打たせて取る投球、エースとして試合を投げぬく責任感、球児同士の友情、そして「甲子園の土」に象徴されるひたむきさ。プロ野球などの将来への野心もなく、ただひたすら「野球ができる」ことに感謝してプレーした選手だった。

引退後は、八幡製鉄、合併後の新日本製鉄に勤務するとともに、日本野球連盟理事・九州地区連盟理事長として、アマチュア球界の発展に貢献した。

解説者としての福嶋氏は「高校球児らしさ」を強調することが多かった。例えば「甲子園の土」についても、「今の子供はシューズ袋にたくさん土を入れますが、ひとつかみでいいと思うんですよ。思い出ですから」と語っている。質素で素朴、周囲への感謝を忘れない謙虚さ。福嶋氏は「高校野球の原点」を若い世代に訴え続けた野球人だといえるだろう。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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