バスケットボール 小磯典子 「自分に対して、よく頑張ったね」 日本不動のセンター 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

「これだけの素晴らしい舞台に立てたんだ」と2度の五輪を振り返る小磯=埼玉県春日部市

 バスケットボール女子日本代表の大黒柱として、日の丸を背負い続けた約17年間の実業団生活。1996年アトランタ、2004年アテネと2回も五輪に出た。ただ、小磯(旧姓浜口)典子にとって、その期間は精神的な苦しみとの闘いでもあった。五輪も確かに「素晴らしい舞台」だったが、華やかなだけではなかった。さまざまな葛藤を乗り越えた今、ようやく「自分に対して、よく頑張ったね」と思えるようになった。

■自分を捨てて
 鶴鳴女高(現長崎女高)を卒業して、女子日本リーグ(現Wリーグ)の共同石油(現JX)に入社。アテネ五輪後に一度は引退したが、約1年後に復帰してアイシンAWでプレーした。五輪予選は1992年バルセロナ大会から5回連続で挑戦。日本不動のセンターとして活躍してきた。
 実業団、日本代表ともに、競争に勝ってきた女子の集団。身を置くのは「正直、きつかった」。言いたいことも言えず、自分を完全に捨てた。監督をはじめ、スタッフの指示にも忠実に従って、何とか生き抜いてきた。
 そんな競技生活を続けていると、心と体のバランスが崩れた。何でもないのに涙がぽろぽろ出たり、脚に原因不明の痛みが出たり…。ひどい生理痛もなかなか改善できなかった。
 それでも、コートに立てば、煩わしい人間関係に巻き込まれずに済む。ストレスが追ってこない自由な場所。だから、その空間では思い切り自分を表現できた。
 22歳で臨んだアトランタ五輪は、ライバルの中国を下して1次リーグ突破。準々決勝で米国に敗れたが、金星を挙げる寸前まで迫り、最終的な7位入賞に貢献した。30歳で挑んだアテネ五輪は、培ってきた冷静な判断力を発揮しながらも、1次リーグ最終戦の終盤に5ファウルで退場。準々決勝進出はならなかった。

■支えのおかげ
 2008年北京大会出場はかなわず、09~10年シーズンでWリーグから引退。その後も心の不調はしばらく続いた。テレビでスポーツ映像を目にしては、現役時代を思い出して「あの時こうしていれば良かったのに」と自らを責め、泣いた。後悔と周囲への申し訳なさから「死にたい」とさえ思った。
 そんな時に生きる力をくれたのが、一人娘の柚樹(ゆき)の存在。夜中に目が覚めても、隣で寝ている娘を見ると安心できた。娘の成長とともに、平穏な日常を取り戻していった。
 つらかった一方で、バスケットを嫌いにはなれなかった。現役時代も引退後も、ずっと支えてくれた家族、姉、両親…。おかげで自分にバスケットという特技が残り、今も指導や普及活動を仕事にできている。
 五輪を目指す古里の後輩たちへ。「努力すれば必ず出られるわけでもないし、つらいこともたくさんある。そういう世界にあえて身を置いて戦おうとしているその日々は何ものにも代え難い。周りの支えに感謝しながら突き進んでほしい」。今しか味わえない時間を大切に。=敬称略=

 【略歴】こいそ・のりこ 長崎市出身。鶴鳴女高(現長崎女高)3年の静岡インターハイで日本一に輝き、Wリーグで通算17年プレー。年間MVPに3回、ベスト5に12回選ばれた。2012年から3年間、長崎女高のスポーツ専門員として地元に戻り、14年長崎国体成年女子の主力として活躍。総合開会式で選手宣誓も務めた。コートネームは「マック」、代名詞はフックシュート。長崎県立総合体育館の館長でもある。183センチ。埼玉県在住。46歳。

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