水泳 清水啓吾 「日本の国旗が揚がって泣いた」 県勢初のメダリスト 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

「銀が取れたのにという悔しさが残っている」とローマ五輪の思い出を語る清水=長崎市

 124年前から連綿と紡がれるオリンピアンの歴史。先駆者の足跡をたどると、長崎県勢初のメダリスト「清水啓吾」の名がある。1960年ローマ五輪水泳男子400メートルメドレーリレー。新進気鋭の大学生スイマーが銅メダルを手にした。

■一浪で慶大へ
 39年、西彼為石村(現長崎市為石町)に一人息子として生まれた。岳南中(現三和中)までは、両親の「勉強をせろ」という方針でスポーツは禁止。近くの海で「サザエを採って、マッチで火を付けて食べる」という日々を過ごしていた。
 長崎東高で野球部に入ったが、球拾いばかりが嫌ですぐに水泳部へ。ここで海で培った泳力が生きた。2年時の兵庫国体男子100メートル自由形で驚きの6位入賞。だが、膨らんだ周囲の期待を裏切るように、3年時は心臓弁膜症を患い、練習も勉強もできなかった。大学受験も失敗した。
 志望校を「塾風が好きな慶大一本」にしてスタートした浪人生活。でも、そのために入った東京の予備校へは、ほとんど通わなかった。「水泳がしたくて気もそぞろ。こいじゃいかん」。いったん帰省して母校で練習を重ね、その秋の富山国体に出た。結果は青年男子100メートル自由形で優勝。県水泳界初の国体王者になった。この勉学との両立が功を奏したのか。一浪で慶大に合格した。
 大学では寮に入って泳ぎに泳いだ。迎えた2年時の春の全日本選手権。ローマ五輪代表選考を兼ねた100メートル自由形で2位に入り、出場権を手にした。水泳を始めて5年弱という異例のスピード出世。ただ、この時は特別な感情は湧かなかった。「自分がどこまでやれるか試そうと思っていた。五輪のために練習したんじゃない」と。

■おまえが出ろ
 ローマではまず個人種目の100メートル自由形に臨んだが、準決勝で敗れた。その後の400メートルメドレーリレー予選は控えだったが、出場した選手が絶不調。「決勝はおまえが出ろ」。突然、アンカーに起用された。
 「日本のために泳ぐ」。初めてそう覚悟を決めてスタート台に立った。第3泳者までの1位は米国。続く豪州とほぼ同時に飛び込んだ。タッチの差で届かなかったが、銅メダルに貢献した。
 レース後は銀を逃した悔しさの方が大きかった。でも、表彰台に立つと気持ちが変わった。「外国で日本の国旗が揚がって感動した。涙がぽろぽろと出た」
 その4年後の東京五輪は「選手として出たい気持ちはなかった」。卒業後は石油会社に就職。完全に競技から離れた。
 そこで17年勤めた後、父の他界を機に退社。地元に戻って「いつかやろう」と思っていた水泳教室を構えた。80歳の今も夫婦で畑仕事をしながら、指導を続ける。
 来夏の東京五輪に臨む選手たちには、成果よりも過程を重視してほしいと願う。「練習で苦しんでほしい。苦しみが自分の成長につながる」。どんな困難な環境でも、諦めずに今できることをやり続ける。かつての自分のように「どこまでやれるか」を追い求めて。=敬称略=

 【略歴】しみず・けいご 西彼為石村(現長崎市)出身。長崎東高から水泳を始め、慶大時代に日本代表入り。1960年ローマ五輪の400メートルメドレーリレーでアンカーを務めて銅メダルを獲得した。61年ソフィア・ユニバーシアードの100メートル自由形で優勝。62年ジャカルタ・アジア大会で100メートル自由形、400メートルメドレーリレー、800メートルリレーの3冠に輝いた。南長崎スイミングクラブ、スポーツフォーラムシミズの代表を歴任。長崎市在住、80歳。

ローマ五輪水泳男子400メートルメドレーリレー決勝、3着でゴールする日本のアンカー清水(6コース)=ローマ

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