サッカー 徳永悠平 「試合前、君が代を聴くとグッとくる」 国民みんなが注目 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

五輪を「サッカー好きじゃなくても国民みんなが注目する舞台」と表現する徳永=諫早市サッカー場

 サッカー選手にとっての最高峰の舞台はワールドカップ(W杯)。出場資格が23歳以下に限られる五輪は、若手が世界に羽ばたくための「アピールの場」という色合いも強い。だが、過去2大会を経験した徳永悠平は、五輪特有の重圧と魅力をこう表現する。「サッカー好きじゃなくても国民みんなが注目する。試合前に君が代を聴くとグッとくるものがある」。Jリーグ発足後、五輪を2度経験した選手は中田英寿、松田直樹、吉田麻也、そして徳永の4人だけだ。

■苦い記憶残る
 初出場したのは2004年アテネ大会。大久保嘉人、平山相太とともに国見高OBの3人が名を連ねた。当時20歳。「若いうちから世界のトップ選手と真剣勝負ができる」と期待に胸を膨らませて現地入りしたが、逆に苦い記憶が残った。
 1次リーグ2戦目、イタリア戦開始直後の3分。右サイドでクロスを阻止しようと滑り込んだ際、相手と激しく接触した。スパイクピンが右太ももに突き刺さって筋断裂。結局、クロスは上がり、MFデロッシの豪快なオーバーヘッドで失点した。止血後のプレー続行は難しく、MFピルロやFWジラルディーノと勝負できないまま18分にピッチを後にした。
 「不完全燃焼を強く感じた。どこかでリベンジしたいなという思いはあった」

■44年ぶり4強
 その機会は思わぬ形で舞い込んでくる。12年ロンドン大会。オーバーエージ(OA)枠での出場を打診された。
 当時、サイドバックは内田篤人や長友佑都が欧州で活躍していた。「正直、もっとふさわしい選手がいる」。一度は断った。アテネ大会の経験から、OA枠の選手がチームに融合する難しさも感じていた。
 それでも、同じ早大OBの関塚隆監督から根気強く誘われ「関塚さんと日本のためだけに引き受けた」。もう一度、重圧を背負う覚悟を決めた。DFには、長崎出身の吉田麻也と山村和也の名前もあった。
 大会直前に合流する身として心掛けたのは、チームが積み上げてきたものを尊重して「一つのピースになりきること」。年長者のリーダーシップなどはいらないと割り切った。もっとも、そんな心配は無用なぐらいチームはまとまっていた。目玉選手に乏しく、前評判は決して高くなかったが「サッカー感の合う選手がそろっている」と好感触を得ていた。
 予感は的中した。ふたを開けてみると、日本は快進撃を続けて44年ぶりに準決勝進出。メダルこそ逃したが「若手が大舞台で試合を重ねて成長し、自信をつかむ姿」は、ベテランの域に入ろうとしていた自らにとっても励みになった。その後の大きな原動力になった。
 このロンドンの経験があるだけに、心配されている東京五輪代表組を悲観的に見ていない。「個人の能力や経験値は今までで一番レベルが高い。あとは東京でやれるというモチベーションがものすごい力を与えてくれる」。卓越した「個」が調和したとき、おのずと結果はついてくると肌で知っている。=敬称略=

 【略歴】とくなが・ゆうへい 国見高時代に5度の全国優勝。早大2年の2003年からJリーグ特別指定選手としてFC東京でプレーし、06年にプロ契約。12シーズン過ごした後、18年にV・ファーレン長崎に加入した。Jリーグ通算454試合出場(うち386試合はJ1)。各年代の日本代表に選ばれ、03年U-20W杯、五輪(04、12年)など国際舞台で活躍した。国際Aマッチ9試合出場。センターバックや右サイドバックが主戦場。雲仙市出身。180センチ、76キロ。

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