カヌー 西夏樹 「あんなに努力したことはない」 やると決め夢つかむ 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

「五輪はきつかったけれど、努力の過程が自分を成長させてくれた」と語る西=長崎市、長崎新聞社

 2016年まで国体に29年連続出場。46枚の賞状を獲得して、14年長崎国体は地元優勝第1号に輝いた。“カヌーの西夏樹”といえば国体のイメージが強いが、10代後半~20代前半は世界を相手に戦ってきた。24年前、24歳で挑んだアトランタ五輪。競技者としての目指すべき方向を示してくれた大会は、一方で「正直、きつかった。自分にあったのは努力できる素質。でも、あんなに努力したことはない」。精神、身体の消耗は並大抵ではなかった。

■最高峰の舞台
 「面白そう」と土井首中からパドルを握った。長崎水産高(現長崎鶴洋高)3年時には、女子カヤックシングルで各種高校タイトルを独占するまでに成長。既に日本選手権で上位入賞する力もあり「五輪出場」の夢を描いていた。
 夢に近づこうと、強くなり始めていた武庫川女大に進学。保健体育の教員免許取得にも励んだ。2年時にバルセロナ五輪の日本代表候補になるなど、各種国際舞台を経験。卒業後は地元に戻り、実習助手として母校に勤めた。
 そのころ、少しカヌーから離れていたが、部活に参加して高校生と一緒に漕ぐうちに、熱意が再燃した。決めたらとことんやる性格。考えられる限りのトレーニングを「めちゃくちゃ頑張った」。カヤックフォアの日本代表として、アトランタ五輪アジア予選を突破。長崎から、夢の切符をつかみ取った。
 「きつかった」のは、ここから。五輪選手への注目や、自らを追い込み続ける中でもなお「頑張ってね」と言われるのを苦痛に感じた。「当時は人のことを考える余裕や受け止める器がなかった」
 ただ、五輪が最高峰の舞台であることに変わりはない。当時の日本が「力不足だったのは理解していた」が、全力を出し切るつもりで臨んだ。結果は準決勝組6着で敗退。「いい結果じゃなかったからか印象が薄くて」。レース内容はあまり覚えていない。

■変わらぬ思い
 五輪の2年後、長崎県の教員に正式採用。カヌーとともにここまで来た。最大の夢をかなえた後は燃え尽きていたが、恩師らの言葉に励まされた。高校の教え子たちが懸命に練習する姿に「この子たちを勝たせよう」と指導に熱が入った。少しずつ、気持ちが前向きになっていった。
 くすぶっていた時期も「長崎県の役に立てるなら」と国体に出て、入賞し続けた。01年からは急流を下るワイルドウオーター種目で貢献。42歳で迎えた地元国体は、自信の有無にかかわらず「スプリントか1500メートル、どっちかでは1位を取る」と心に決めていた。そして本当にスプリントでやり遂げた。
 カヌーと歩んで35年。やめたいときもあったけれど「結局は好きで、なくてはならないもの」。来年、1年越しに日本へやってくる五輪には、勤務先の西陵高で同僚だった水本圭治(チョープロ)も出場する。そこでレースを見た一人でも多くの人が「面白そう」と関心を持ってくれたら…。今はそれが一番の願いかもしれない。=敬称略=

 【略歴】にし・なつき 土井首中でカヌーを始め、長崎水産高(現長崎鶴洋高)進学後に全国レベルで活躍した。武庫川女大時代から日本代表に入り、1993年アジア選手権のカヤックペアで優勝。長崎水産高の実習助手2年目に、カヤックフォアで96年アトランタ五輪に出場した。国体入賞は優勝4回を含めて46回。40歳ごろからカナディアン種目に挑戦しており、2013年は世界選手権も出場した。保健体育教諭として西陵高に勤務中。長崎市出身。48歳。

アトランタ五輪カヤックフォアの日本チームで、エンジン役となる最後尾のポジションを務めた西(右端)=米ジョージア州

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