被爆資料2万点がほぼ死蔵 長崎原爆資料館 学芸員不足、調査分析追いつかず

By 石川 陽一

 約2万点。これは長崎原爆資料館(長崎市)が所有する被爆にまつわる資料の数だ。焼け野原となった市街地の写真や熱風で溶けた瓦、被爆者の罹災(りさい)証明書など、分野は多岐にわたる。一方、展示されているのはごく一部。収蔵品の目録は非公開としているため、市民や研究者による活用は望めず、多くが事実上の死蔵状態となっている。背景には資料の調査や分析を担う学芸員の人数不足がある。被爆の実相を後世に残すための施策が求められている。(共同通信=石川陽一)

長崎原爆資料館の展示物を見学する子どもら

 ▽学芸員はたったの2人

 「とてもじゃないが一つ一つの資料の精査まで手が回らない。日常業務に忙殺され、研究の時間は取れない」。長崎市の担当者はそう漏らす。資料館は被爆にまつわる写真や現物資料、書類などの寄贈を受け付けており毎年、数十~数百点の申し込みがある。だが、対応にあたる学芸員はたった2人。ことしは被爆75年の節目で収集を強化しようと期間限定でさらに1人を雇い、「かなり助かっている」と先の担当者は話す。それでも過去の資料について調べる余裕はないという。

 寄贈後の資料はどうなるのか。毎年8~10月ごろに開く「新収蔵品展」で一般公開した後は、館内の収蔵庫で眠りにつくことになる。一般展示の定期的な入れ替えはなく、企画展や他県での原爆展での貸し出しなど、人目に触れる機会は限られている。

 資料館では収蔵品を大まかに4つに分類している。

 ①熱風を受けた瓦や瓶などの「現物資料」

 ②被爆者の罹災証明書などの「記録資料」

 ③被爆者が惨状を描いた絵画などの「美術資料」

 ④原爆投下直後の様子などを写した「写真資料」

 これらに加え、被爆建造物や館外の資料などの情報も網羅した台帳を作成して管理している。

長崎原爆資料館入り口

 ▽収蔵品データベースは非公開

 この台帳は長崎原爆に関しては世界に二つとない貴重なデータベースだ。だが、資料館は「全ての寄贈者から公開の同意を得ているわけではない」として一般公開していない。つまり、外部の人間は資料館にどのような物があるのかを知ることすらできないのだ。

 文部科学省が策定する「博物館の設置及び運営上の望ましい基準」は、目録を「閲覧に供し、頒布すること」と定める。資料館は法的には「博物館類似施設」のため、該当しないという。

 長崎市の被爆者山川剛(やまかわ・たけし)さん(83)は「資料は市民のもの。きちんと情報公開するべきだ」と苦言を呈する。

 山川さんは、平和教育の授業で取り扱おうと原爆犠牲者の「爆死証明書」の閲覧を資料館に申し込み、「個人情報が含まれるので見せられない」と断られた経験がある。このときは遺族を探し出して了承を得、ようやく公開された。「貴重な書類も日の目を見なければ紙くず同然だ。資料を誰もが利用できるよう、市は体制を整える義務がある」。

 資料の有効活用を図るために2010年、資料館は一部の収蔵品を検索できるウェブサイト「長崎原爆資料館 収蔵品検索」を開設した。だが人手不足から更新は滞り、20年8月時点での掲載数は約2700点にとどまる。市民や研究者から「こういう資料はないか」と問い合わせがあった場合は、学芸員が逐一、台帳で検索して返答しているのが現状だ。

所在不明となった反核座り込みの初代横断幕の写真を手にする被爆者の山川剛さん=6月8日、長崎市

 ▽所在不明となる資料も

 山川さんにはもう一つ、資料館に苦い思い出がある。所属するグループが寄贈した資料が所在不明となっているのだ。長崎では、米国や旧ソ連などの核実験に抗議し、1974年に山川さんら被爆者の有志が始めた座り込み運動が現在も続く。そこで掲げていた初代の横断幕の行方が分からなくなっている。

 横断幕は縦約50センチ、横4~5メートルほどで、白地の布に「核実験を直ちに中止させましょう」と墨で書かれている。約4年にわたり使用し、裏面には参加者の氏名をボールペンで書き込んで名簿代わりにしていた。78年8月25日に原爆資料館の前身の国際文化会館原爆資料センターに寄贈すると、翌日の長崎新聞朝刊には「核実験に対する被爆者の怒りと抗議の証しとして同館に展示、永久保存される」と紹介された。

 座り込みは核実験のたびに開き、これまでに計404回を数える。最盛期には100人以上が集まり、天皇の戦争責任について言及したことで知られる元長崎市長の故本島等(もとじま・ひとし)氏らも参加した。

 2017年8月、故人となったある被爆者がいつから座り込みに参加していたのかを報道機関に尋ねられた。山川さんが横断幕について資料館に問い合わせ、所在が分からなくなっていることが判明した。市の担当者は共同通信の取材に「記録が残っていない。当時の職員も退職しており、調べようがない」と説明した。

 他にも、国際文化会館時代に展示していたホルマリン漬けの被爆胎児の標本が所在不明となっている事例などがある。「1996年に現在の資料館がオープンした際、処分されたのではないか」。山川さんは疑念をぬぐえない。「まだ無くなっている物があるのではと考えてしまう。適切に資料を管理しているのか疑問だ」とこぼした。

「長崎原爆被災者協議会」の事務所に並ぶ被爆者運動に関する資料=6月、長崎市

 ▽市民グループで資料収集の動き

 資料館は現在、被爆に直接的な関わりがある資料しか寄贈を受け付けていない。核兵器廃絶や被爆者援護などの市民運動にまつわる資料は対象外だ。

 長崎市の被爆者団体「長崎原爆被災者協議会」の事務所の地下には、歴代の会長の手帳や議事録、集会のチラシなどが入った大量の段ボール箱が並ぶ。1956年に会が創設されて以降の資料が未整理のまま保存されていた。「被爆の実相を後世に伝える貴重な資料の散逸や廃棄を少しでも防ぎたい」。長崎大・核兵器廃絶研究センターの客員研究員、山口響(やまぐち・ひびき)さん(44)らのグループ7人は今年3月、資料の電子データ化に乗り出した。

 山口さんは「被爆者が抱いた健康不安や、行政に援護の充実を求める過程で突き当たった問題が分かる資料だ」と指摘し、来春をめどにデジタル化の完了を目指している。その上で、被爆者運動の資料に限らず「民間では団体がなくなるなどしたら管理が難しくなる。公的機関にも力を入れてもらいたい」と求めた。

「長崎原爆被災者協議会」の事務所で、被爆者運動に関する資料の目録を作成する山口響さん(左)ら=6月、長崎市

 ▽取材を終えて

 被爆者なき時代が迫る中、実相をどう後世に伝えるのかは最大のテーマだ。長崎市の平和行政を取材していると、平和教育や被爆体験の継承に力を入れているのは伝わってくる。一方で資料館はもっと頑張れるのではないかと感じてしまう。ただの観光施設にしないためにも、市は学芸員の増員など必要な施策を講じてほしい。被爆資料のデータベースは整備して一般公開してはどうか。原爆に関する研究拠点として資料館を位置付けられれば、長崎の新たな魅力になることは間違いないだろう。

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