軍施設のない土地に戻して 地主男性「戦争はまだ終わってない」

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緑に覆われた掩体壕の前で思いを語る武村勘一さん(7月16日、東近江柴原南町)

 戦時中、滋賀県東部の田園地帯にあった陸軍の八日市飛行場。その近くに生まれ育った東近江市柴原南町の武村勘一さん(88)の土地には、飛行機を爆撃から守る掩体壕(えんたいごう)が戦後75年たつ今も残る。半強制的に接収された土地に造られ、その後放置された。朽ちかける戦争遺跡を前に武村さんは「戦争はまだ終わっていない」と話す。

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 私は戦争の中で育ち、12歳で終戦になりました。飛行場から、飛行機が隣町との間に向かって飛んでいく。着陸も同じ経路で、着陸に失敗した練習機もよく見ました。

 戦争末期は、食料がなく農作業ばかり。今のパナソニックの工場がある御園辺り。当時は一帯が木に覆われ、数機の飛行機があった。整備士が「乗ってもいいぞ」と言ってくれたので、乗せてもらったこともあります。

 飛行場があるので、空襲もありました。1945年7月、屋根に薬きょうがパラパラと落ちる音がしたんですが、一緒にいた叔父さんが「こんなのは怖くない」と、皆が防空壕(ごう)に避難していたのに、見に行ったことを覚えています。

 戦争が終わると集められた飛行機80機ぐらいが米軍に燃やされ、何日も黒煙が上がりました。悔しさとかいろいろなものが入り交じった感情でした。大人は、監視の目を盗んで飛行場から使える物を持ち帰っていました。

 1918年に八日市に飛行場を造るとき、祖父は土地を供出していて、その土地台帳が残っています。開場時と戦争期の2度、お金は頂いたようですが、半ば強制的にもっていかれたんでしょうね。

 掩体壕もそうして造られました。飛行機を隠すためですが、飛行機が傾斜を上がれず、結局使われていない。今は崩落寸前です。戦争教育に使ってほしいという思いもあるが、地主としては元に戻して返してほしい。もう私がいなくなるときまでこのままでしょう。そういう意味では、まだ戦争は終わっていないのです。