高3の夏、燃え尽きて野球をやめる悪弊は終わりにすべき。甲子園交流試合で感じた「球児の成長」

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「いつも通りの甲子園」がない夏が終わった。負けたら終わり、汗と涙の筋書きのないドラマの不在を嘆く声も多くあがったが、作家・スポーツライターの小林信也氏は選抜高等学校野球大会に出場する予定だった32校で行われた2020年甲子園高校野球交流試合に例年とは違う「球児の成長」を見たという。

(文=小林信也、写真=KyodoNews)

異常に少なかった、わずか2本の柵越えホームランが意味するもの

今年は高校野球の“甲子園”が春夏とも中止となる異例の事態となった。そんな中、8月に『2020年甲子園高校野球交流試合』が開催され、センバツに出場する予定だった32校がそれぞれ1試合ずつ甲子園で試合する機会を与えられた。

結果を俯瞰(ふかん)すると接戦が多かった。1点差が4試合、2点差が6試合、5点差以上の試合は4試合にとどまった。
例年と大きく違ったのが何よりホームランの数だ。全16試合で3本。うち1本はランニングホームランだから、柵越えは2本しかなかった。

過去3年間の1試合あたりのホームラン数を調べると、昨年がちょうど平均1本で計48本、一昨年は0.9本で計51本、3年前が1.4本で計68本だ。いつもの夏は1試合に1本前後の割合で柵越えが出ている。

この数字は何を意味するのか? 高校野球ファンや指導者の間でも話題になった。
指導者の声を総合すると、「春からの練習不足でレベルが低かった」「出場が1試合に限られたため、強打者が力んで空回りした」「好投手が多かった」などの理由が指摘されている。

ホームラン減は「飛ばないボール」が使われたから?

熱心なファンやメディアからは、「飛ばないボールが使われたためではないか」との推論もあった。

昨夏、打球が投手を直撃する事故があった。バットの性能が上がり、打者たちの筋力が飛躍的に向上する高校球界にあって、投手の安全を守る対策は最優先課題の一つになっている。日本高野連は昨年の大会後すぐ、アメリカで開発されている低反発バットの導入を決め、国内メーカー各社に製造の依頼をしている。だがまだ採用に至っていないため、「飛ばないボールを使うことで安全を担保したのではないか」という読みだ。

しかし、メディアの質問に日本高野連の小倉好正事務局長は「これまでと同じものを使わせていただいています」と回答。

私も理事の一人に確認したが「日本高野連はボールの変更を要請していない」という。公認メーカーが独自に反発係数の低いボールを提供した可能性もなくはないが、ボールが同じとすれば、理由はやはり別にあることになる。

「繊細な感受性を育む高校野球」にふさわしい投手と打者の関係

取材を総合すると、やはり「好投手が多かった」「春からほとんど試合ができなかったため、生きた投手の球を打つ機会が少なかった」といった要因が挙げられる。「練習不足でレベルが下がった」という表現には抵抗を感じるが、「投手と対戦する機会が少なかったため、投手有利の状況になった」という指摘はうなずける。

私は投手出身のせいもあって、筋トレで身体を鍛えた高校生が金属バットをブルンブルンと振り回し、詰まっても長打になり、スタンドにさえ運ばれる高校野球の傾向は半ば暴力的だと、嫌悪感を抱いている。投手がまるでいけにえになっているように見えるのだ。

優秀な投手が投球術や知力・感性を尽くしても、金属バットはそうした技量やセンスをあざ笑うように駆逐する。

そんな乱暴な高校野球に「思いやり」や「繊細な感受性」といった情操が宿るのか? 教育的な深さが息づくのか? 大いに疑問を感じているので、今回の甲子園交流試合の投手と打者の力関係には、本来あるべき公平さが見え、胸をなでおろす思いがある。

一目見て驚いた、高校球児たちのフレッシュな姿勢

先に「練習不足でレベルが下がった」という表現には抵抗を感じると書いた。なぜなら私は、まったく別の観点から、高校球児の「飛躍的な成長」を感じたからだ。
特筆したいのは、選手たちの表情や姿勢の違いだ。

NHKのテレビ中継で試合の様子を見た瞬間、私は思わず「アッ」と声を上げた。高校球児たちの表情がフレッシュで、驚いたのだ。フレッシュという印象を詳しく言い換えれば、「選手たちの顔や身体からにじみ出る雰囲気」が全然違った。いつもの夏はもっと「暑苦しい感じ」だ。悲愴感が漂い、「いっぱいいっぱい」な形相で白球を追う。
「その必死さがいい」「真剣勝負」などと賛美されてきた。が、悲壮感がなく、どこか余裕のある球児たちの姿の方が私には輝いて見えた。

姿勢もスッとして凛々しかった。投手も打者も、自然体で立っているように感じた。
例年は結果にもっと執着し、打者は前のめりに構え、握るバットに力が入っている。投手も力みがちだ。しかし今年の夏、交流試合では余計な力みがなく、真っすぐに自然体で立つ選手たちが目立った。

休むことの効用、疲れていない素晴らしさ

(疲れていないんだ)
と次の瞬間に感じた。例年なら、夏の甲子園にたどり着くまでに、それこそ「死闘」と形容されるような激戦を多く経験する。終盤は猛暑の中での連戦になるため、甲子園に来るころには疲労が蓄積、故障を抱える選手も少なくない。しかも、トーナメントを勝ち抜く過程でギラギラした闘争本能を全身にため込むのだろう。球児たちの顔には充足感と同時に悲愴感が漂う。甲子園でも「負けたら終わり」だから、その重圧はいっそう高まる。
ところが今夏、甲子園の交流試合に登場した選手たちの多くがフレッシュだった。
それぞれ7月に「独自大会」と呼ばれる地方大会を経験している。例年と同じトーナメント戦だが、日程がゆるやかで、優勝しても甲子園出場がないため、切迫感も少し違ったのだろうか。あまり疲労を感じさせなかった。交流試合に向けて調整するゆとりがあったのだろう。
また、コロナ禍のため球児たちは3月ころからほとんど練習ができなかった。従来は2年半にわたる猛練習、ほとんど休みもなく野球に没頭する日々で彼らがいかに疲弊し、消耗していたかが見えた気がした。練習ができない、つまり休養十分な彼らは疲れがなく、活力に満ちていた。レベルが下がったと専門家たちは言うが、私には野球のレベルも十分に高く見えた。

もう一つ、高校生たちの表情が心なしか大人っぽく見えた。
これだけ野球のできない時期を持った高校生は、戦後初めてだ。
高校球児はこれまで、一日たりとも休むことは罪悪だと思い込まされていた。しかし、コロナ禍でまったく別の現実を経験した。

これだけ休んでも、工夫次第で体力は維持できるし、決して野球は下手になっていなかったと多くの球児たちが実感しただろう。そして、自分で考える時間を持ち、野球の意義や自分の将来を真剣に見直す時間を十分に持てたのだろう。おそらく野球以外の趣味や情報収集に時間を注いだ結果、これまでの高校球児とは違う、人間的な幅の広さを備えた選手が多くなったのではないかとこれは私の推察だ。猛練習ばかりが高校生を成長させるわけではない。野球を離れ、別の青春を過ごした日々はマイナスではなかった。

高3の夏、燃え尽きて野球をやめる悪弊

来年の夏はまたトーナメントでの選手権が予定されている。だが「以前に戻ること」を当たり前だと考えなくてよいと私は感じた。今年と同じ交流試合方式もよいのではないか?
交流試合は勝っても負けても1試合きり。例年のような熱狂はなかったが、注目度もあまり高くないこの程度がよいのではないか。高校生が日本中の注目を浴び、まるで野球界の頂点を争うような錯覚の中でプレーする滑稽さを見直す機会にするべきだと感じた。

負けて終わりの高校野球ではなく、甲子園をはじめ全国各地で自分たちの交流試合を設定し、高校野球の仕上げを飾る伝統を生み出したら高校野球はさらに魅力的な活動にならないだろうか。

高校野球ファンからは「盛り上がりに欠ける」「やっぱりつまらない」といった感想も聞かれたが、主役は高校生だ。イベントとしての盛り上がりや観客の熱狂ではなく、全国の高校球児一人ひとりの成長や満足こそが最優先されるのが本来だ。

日本の高校球児の大半は、高校3年の夏、燃え尽きて野球をやめる。野球人口は18歳を境に激減する。そんなおかしな現実を野球界は放置し続けるのだろうか?

余力を残し、思いを残し、さらなる成長の可能性を抱いて高校を卒業し、20代になっても野球に取り組み、野球を楽しむ環境づくりこそ重要だ。高校3年が野球人生の頂点であるかのような成長曲線はあまりに偏っている。野球という競技の特性や適性年齢にも合っていない。もっと人間としての総合的な成長と合わせて設計してこそ、野球文化はいっそう充実するに違いない。甲子園交流試合を見ながら、改めてそのような感慨を抱いた。

<了>