今日(9/5)はクイーン、フレディ・マーキュリーの誕生日:その生涯を彼の言葉で振り返る

Photo: Peter Röshler © Mercury Songs Ltd

ロック史上最高のパフォーマーの1人として広く認知されているフレディ・マーキュリー は、「伝説」になってみせるという自らの誓いを果たした。アート・スクールに通っていた学生時代、クイーンのリード・ヴォーカリストとしての大成功、ソロ・シンガー・ソングライターとして成功した80年代など、フレディ・マーキュリーは刺激的な人生を謳歌した。印象深いフレディ・マーキュリーの言葉とともに、彼の素晴らしい人生を振り返ってみたい。

幼少期

フレディ・マーキュリーは1946年9月5日、ファルーク・バルサラとしてザンジバル(当時はイギリス連邦の一部で、現在はタンザニアに属する)で生まれた。父のボミは、公務員として政府の仕事をしていた。
「両親はすごく厳しかった。寄宿学校は僕にとって良い経験になるだろうと考えた両親は、7歳の僕をインドの寄宿学校に入れたんです」とフレディは回想している。「実際それは大いに役に立ちました。というのも、幼い頃から自立することを学び、責任感も植えつけられましたから。育つ環境が激変して、それがいい方向に転んだんだと思います」

フレディ・マーキュリーの母、ジャー・バルサラは、息子がボンベイ(現在のムンバイ)にほど近いセントピーターズ・スクールに通う間、ピアノのレッスンを受けるよう手筈をつけた。

アート・スクールへ

1964年、フレディ・マーキュリーと彼の家族は革命で不穏となったザンジバルから逃れ、ミドルセックス州フェルサムに移り住む。当時20歳だったフレディは、アートとグラフィック・デザインの学校に通いはじめた。

「ピート・タウンゼントが卒業した1年後に、ロンドンのイーリング・アート・スクールに入学しました。そこで僕たちが学んでいたすべてに音楽も絡んでいて、学校では大勢のミュージシャンが育っていました。修了証書をもらった後、フリーランスのアーティストとしてやっていこうと思い、数ヶ月やってみたら、“ああ、もうこれで十分だ”と思ってしまった。そこまで興味がなかったんです」

1969年にアート・スクールを卒業したフレディ・マーキュリーは、さまざまなバンドに参加しながら、ケンジントン・マーケットで古着を売っていた。

クイーン初期

1970年4月、フレディはギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラーと手を組み、スマイルというバンドのリード・シンガーになった。このバンドが後にクイーンとなり、1971年7月にはジョン・ディーコンが加入した。

「クイーンっていう名前は、早い段階で思いつきました。キングじゃなくね。クイーンみたいな響きも雰囲気も他にはありませんから。すごく威厳のある名前だし、素晴らしい響きです。力強いし、普遍的だし、分かりやすい。視覚的な可能性もたくさん秘めていますし、あらゆる解釈も可能なんです。クイーンって名前は、あの時代にマッチしていたと思います。たとえば劇場とか、あらゆるものにぴったりな壮大な名前なんです。すごく壮麗で、いろんな含意もある。はっきりとひとつに分類できないものなんです。もちろん、ゲイ的な意味であることも気づいていたけれど、それはあくまで名前の一面に過ぎません」

「ボヘミアン・ラプソディ」で大ブレイク

『Queen』(1973年)、『Queen II』(1974年)、『Sheer Heart Attack』 (1974年)という3作のアルバムで高い評価を得た後、1975年にリリースされたアルバム 『A Night At The Opera』で、クイーンは世界的な現象となった。同アルバムには6分にわたる傑作「Bohemian Rhapsody」が収録されているが、フレディは「この曲を却下しかけた」という。しかし彼は、同年10月31日にシングルとしてリリースされた同曲がバンドにとっての転機となったとも語っている。

「あれでクイーンの火山が本格的に噴火しました。いきなり爆発したんです。あのシングルは、イギリスだけで125万枚以上のセールスを記録する大ヒットになって、お婆ちゃん世代さえもあの曲で盛り上がっていました」

 

ビデオ・スターとしてのクイーン

かの有名な「Bohemian Rhapsody」のビデオの他にも、70年代から80年代にわたって、クイーンは印象的なビデオを多数制作している。例えば、1984年のアルバム『The Works』に収録されている「I Want To Break Free」のビデオでは、メンバー全員が郊外の家に住む女性に扮し、イギリスで人気の昼ドラ『コロネーション・ストリート(Coronation Street)』のパロディを披露している。

「あのビデオは、多くの人々に衝撃を与えました。僕たちにはああいった愉快な要素がないと思われていましたからね。僕たちは、簡単に役に入り込むことができました。いやぁ、あれはこれまで作った中でも、特に素晴らしいビデオだと思ってます。あのビデオを見るたびにニヤついてしまうんです。もう何度も見てるのに。作ってよかったです」

 

世界を揺るがしたライヴ・エイド

1985年7月13日、ウェンブリー・スタジアムで行われた『ライヴ・エイド』でのクイーンのパフォーマンス は、同日のハイライトとなっただけでなく、史上最高のライヴ・パフォーマンスとしても歴史に刻まれた。クイーンにとって極めて重要な偉業を成し遂げたのだ。

「僕に関して言えば、誇りを持ってパフォーマンスしています。誇りに思えることですから。ビギーズ(超大物のスターたち)と一緒に出演して、価値のあることができるんです。ああ、何よりも誇りに思っています」

 

ひるむことのない率直さ

フレディは、パフォーマンス中はこのうえなく「外向的」だが、「心の中は正反対の男だ」と話している。彼は自らを「偉大なるペテン師」と称し、「前歯が出ていること」を気にする「非常に神経質な人間」だと認めている。

彼はまた、計算が「苦手」で、化学は「役に立たない」便利屋だとジョークを言っている。彼の趣味は映画鑑賞と音楽鑑賞で、専属のシェフを雇えるほどのリッチな生活も楽しんだ。しかし、「時間の無駄だと思う」という理由に読書はほとんどしなかった。

彼は長年の友人、メアリー・オースティンへの愛を率直に語ってもいる。「僕は誰よりも彼女に心を開いています。2人でさまざまな浮き沈みを経験しましたが、そのおかげで僕たちの関係は強固になりました」

「We Are The Champions」はフレディにとっての「My Way」

クイーンが1977年に放ったヒット「We Are The Champions」は、史上もっとも成功したロック・アンセムのひとつとなった。彼はこの曲が自分にとっての「My Way」だとジョークで語っている。

「‘We Are The Champions’は、僕が書いた中でいちばん尊大で傲慢な曲なんです。この曲を書いた時、僕はサッカーのことを考えていました。みんなが参加できる曲を作りたかった。ファンが参加できるような、大衆向けの曲をね。サッカーのチャントみたいに、誰もが一緒に歌える曲を書きたかったんです。それと同時に、みんなに向けた勝利の歌になればいいと思っていて、それが功を奏しました」

 

ソロ・アーティストとしての成功

80年代もまた、クイーンが大成功を収めた時代だ。『A Kind Of Magic』をはじめ、アルバムは軒並み大ヒットを記録し、フレディ・マーキュリーはソロ・アーティストとしての才能も開花させ、1986年には初のソロ・アルバム『Mr. Bad Guy』をリリースした。

「ずっとソロ・アルバムを作りたいと思っていました。でも、しかるべき時にしかるべき場所で作りたかったんです。年をとりすぎる前に、やりたいと思っていた曲をきちんと取り組めるようにね。たくさんのアイディアが次々に浮かんできましたし、クイーンではできない音楽的なジャンルもたくさん探求したいと思っていました」

その後、1988年には、ソプラノ・オペラ歌手のモンセラート・カバリェとのコラボ作となるアルバム『Barcelona』をリリースした。

1987年初頭、フレディ・マーキュリーはAIDSと診断され、それから5年以内にこの世を去った。その間の数年間で、彼は情熱的かつ献身的にすさまじいまでの創造力を注入し、クイーンのアルバム3枚分の楽曲を制作する。『The Miracle』は1989年、『Innuendo』は1991年、『Made In Heaven』はフレディの死後にリリースされた。

1991年11月24日、45歳で亡くなったフレディは、命の終わりについて淡々とした考えを持っていた。

「自分が長生きするなんて思ってはいませんし、長生きしたいとも思っていません。70歳まで生きようなんて到底考えてもいません。きっととても退屈でしょうしね。それよりもずっと前に死ぬだろうし、この世にはいないだろう……って思っています。精一杯生きてきたので、明日死んでもかまわない。存分に生きて、本当にすべてをやり切りましたから」

 

フレディの人生にインスパイアされた伝記映画

クイーンの自伝映画『ボヘミアン・ラプソディ』は世界で9億ドル以上のの興行収益を上げ、音楽自伝映画としては史上最高の売り上げを記録した。また、主演のラミ・マレックは同作品でアカデミー賞“主演男優賞”の名誉に輝いた。

そんなフレディ・マーキュリーは、自分の人生が映画になることを予期していた。

「いつか僕の人生が映画になる気がしています。僕の役が重要な要素になるような映画でね。僕自身は主役を演じないかもしれませんが、僕がこの人生でやってきたことと言ったら……この上なく際どいんです。本当に」

Written By Martin Chilton

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