ボブ・マーリー「No Woman, No Cry」名曲誕生の裏側と謎の作曲者とは?

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貧しいジャマイカ人の苦労と経験を世界に向けて歌うアンセムが存在するとしたら、それはボブ・マーリー(Bob Marley)の「No Woman, No Cry(ノー・ウーマン・ノー・クライ)」だろう。デスモンド・デッカーの1968年の「Israelites」など、ジャマイカのスラム街で暮らす人々の苦闘をテーマにしたポップ・ヒットはそれまでにもあったが、デスモンド・デッカーの曲を聴いたリスナーの多くは彼のメッセージを真に理解していなかった。しかも明るい色調の曲だったために、そのテーマが厳粛なものであると疑う者もほとんどいなかった。

一方で、「No Woman, No Cry」はボブ・マーリーの伝えたいことをしっかりとリスナーに届けることができた。この非常にスピリチュアルな楽曲は、人々の貧困やそこからくる不当な扱いについてあからさまには言及せず、ジャマイカのキングストン市にあるトレンチタウンのスラム街での暮らしについてを物語っている。ボブ・マーリーは記憶、観察、そして何よりも、慰めと希望を伝えているのだ。それは純粋な彼らしい、温情に溢れる、スピリチュアルな作品になっている。

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苦難に直面した時でも人生を祝福する

「No Woman, No Cry」は、1974年のアルバム『Natty Dread』に初めて収録され、ドラムマシンのリズムを使用した楽曲だ。レゲエのジャンルでは革新的だったこの技術は、ザ・ウェイラーズのベーシスト、アストン・“ファミリーマン”・バレットが提供した。印象的なキーボードのアレンジは、セッション・ミュージシャンのジーン・ルーセルが手掛けたもので、1975年7月18日にロンドンのライセウム劇場で行われたライヴでは、才能溢れるハモンドオルガン奏者、タイロン・ダウニーの演奏によってそれがさらに引き立てられている。このライヴの模様はアルバム『Live!』として収められ、後世に残された。

ボブ・マーリーにとってブレイクのきっかけとなったこのヒット曲のライヴ・ヴァージョンしか知らないファンは、スタジオ・ヴァージョンの優しく繊細なサウンドに驚くかもしれない。ドラムマシンが淡々とリズムを刻み、少しだけワウペダルを効かせたファンクっぽいギターと、まるでジャムかリハーサルかのように演奏するアイ・スリーズが印象的だ。

リズムの観点からすれば、レゲエからはかけ離れているが、この素晴らしいジャマイカのバンドがリラックスして曲に取り組んでいる様子が伝わってくる。クリス・ブラックウェル、ザ・ウェイラーズ、そしてボブ・マーリーによる巧みなプロダクションは、まるでトレンチタウンの公営住宅の広場に腰掛け、思い出を語りながら曲作りをしているような、素朴な地元の風情を感じさせるのだ。

ボブ・マーリーが、他のレゲエ・アーティストたちと比べて優れていた点の一つは、常に同じバンドと共にツアーを行っていたことだろう。当時のほとんどのジャマイカ人シンガーは同じバンドと活動することはなく、その時々において適任でスケジュールの合うバンドとパフォーマンスしていた。一方でボブ・マーリーは、ザ・ウェイラーズとくり返し演奏することにより、独自のスタイルを伸ばしていったのだ。

『Natty Dread』発売から9ヶ月後には、「No Woman, No Cry」は既に大ヒットとなったお陰で、自由と余裕が許され、オリジナルが3分46秒だったのに比べ、『Live!』に収録されたヴァージョンは7分以上にも及ぶものとなっている(7インチ・シングル用には、スタジオ・ヴァージョンと同じぐらいの長さに編集された)。控えめながらもインスピレーションに溢れるこの曲は、漂いながら膨れ上がるソウルフルなスキャンクで、オープニングでのアイ・スリーズの天使のような歌声と、ドラムのカールトン・バレットのヘビー級な演奏のお陰で祝賀的な雰囲気に仕上がっている。

私たちには辛い時もあったが、いつも愛と友情と希望があった。失くなった者もいるが、忘れ去られることはない。生き延びて成功した者もいる。苦難に直面した時でも人生を祝福する曲である。泣かないで、私たちは生き続けなければならない。

 

作曲者ヴィンセント・フォードとは?

この名曲の作曲者が誰なのかについては、これまで何度も議論されてきた。ボブ・マーリーの元出版社でさえも版権をめぐって訴訟を起こしたが負けてしまっている。この曲には、ボブ・マーリーの生まれ故郷トレンチタウンでは有名人だったヴィンセント・フォードの名前が作曲家としてクレジットされている。

ヴィンセント・フォードは、糖尿病の治療をスラム街で受けられなかったために幼い頃に脚を失い、トレンチタウン中を車椅子で移動していた。そんなハンデもものともせずに、彼は公営住宅のあるガバメント・ヤードでスープキッチン(*炊き出し所)を営んでいた。ガバメント・ヤードとはある特定の場所を指すのではなく、政府が40年代に貧しい人たちを収容する西キングストンに建てたビル郡の間の広場のことを指す。他の地域にある掘っ立て小屋に比べれば立派な建物で、トイレがあり、水道と電気も通っていた。しかし、その地域の住民たちは仕事に恵まれることはなく、ひどく貧しい生活を送っていた。

そんなヴィンセント・フォードが提供していた賄いから恩恵を受けた人々の中にボブ・マーリーがいたのだ。彼の取り組みがなければ、ボブ・マーリーは飢えていただろうと彼自身が語っている。ヴィンセント・フォードはボブ・マーリーのいつかの作品に作曲者としてクレジットされており、その中には「No Woman, No Cry」も含まれている。ボブ・マーリーがなぜ最も有名な自身の作品一つのクレジットを彼に与えたのか、それについては諸説あり、ここでは詳しく議論はしないが、もし本当にボブ・マーリーが曲を書いていないヴィンセント・フォードに手柄を与えたのであれば、思いやりに溢れる年配のヴィンセント・フォードは、受け取った印税に助けられたことは間違いないだろう。命を救ってもらった優しさへのボブ・マーリーの素晴らしい恩返しだったと言える。

この曲をヴィンセント・フォードが書いたことにするというその約束は、最後まで破られることはなかった。90年代には、キングストンのボブ・マーリー博物館でヴィンセント・フォードの姿がよく目撃されている。彼は、ボブ・マーリーが苦労や貧困に対して究極の勝利を得たという事実を後世に伝えてきた、正に生き証人だったのだ。

受け継がれるアンセム

「No Woman, No Cry」をカヴァーしたミュージシャンは数多くいる。1996年のフージーズによるカヴァーはヒットを記録した。ニーナ・シモンのカヴァーはボブ・マーリーにとって青天の霹靂だっただろう。彼女はレゲエ音楽に大きな影響を与え、ボブ・マーリーはまだ彼自身が有名になる前にニーナ・シモンの「Sinnerman」をカヴァーしている。

南アフリカの黒人居住地区出身のパイオニア的ミュージシャンであるヒュー・マセケラによるカヴァーは1989年にレコーディングされており、その他にもジョーン・バエズ、パール・ジャム、そしてノーティー・バイ・ネイチャーなど多様なアーティストたちがその魂のこもった美しい楽曲に魅了されてきた。

ハリー王子&メーガン妃のロイヤル・ウェディングに出演してクラシック界を沸かせた若きアフリカ系チェロ奏者のシェク・カネー=メイソンは、2018年にリリースしたこの曲のカヴァーによってメインストリームの仲間入りを果たした。

1975年にはレゲエ界のレジェンドのデリック・モーガンが、「No Woman, No Cry」へのアンサー・ソングとして「Some Woman Must Cry」を作曲し、男たちから酷い扱いを受けていることを考えれば、女たちは泣いていいんだと歌っている。

しかし、誰もボブ・マーリー&ウェイラーズが与えたインパクトを超えることはできない。この曲は永遠のアンセムであり続けるのだ。

Written By Ian McCann

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