「山伏塚」(熊本市西区)にまつわる怖い話 機密漏らし、口封じに処刑か

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山伏塚の石碑(右奥)に手を合わせる小薗正雄さん=熊本市西区
石碑の土やコケを落とすと「龍蔵院」の刻字がはっきりと現れた

 江戸時代初期、熊本城築城に関わり、処刑された山伏がいたのをご存じだろうか。熊本市西区池田には、その霊をなぐさめる石碑が建てられた史跡「山伏塚[やんぼしづか]」がある。

 山伏塚は北区津浦町の複合商業施設「APタウン熊本北」の西側で、県道沿いの階段を上った所にある。二つに折れた石碑はほぼ地中に埋まり、刻まれた文字は不鮮明だ。

 市が熊本の昔話をまとめた「くまもと散歩」によると、加藤清正は城の地鎮祭に上方から位の高い山伏「龍蔵院」を招いた。祭事後の酒盛りで酔いが回った龍蔵院は、国の最高機密である城の構造などをしゃべり始めた。このため、同席した武士が口封じのため斬り殺したという。

 この話の基は1700年代に編さんされた「肥後国誌」。「龍蔵院という山伏がなんらかの罪で処刑された」という記述がある。

 処刑理由と方法は1884(明治17)年になって、熊本初の新聞「白川新聞」の創始者である水島貫之が書き加えた。「史実になく死刑になった人の石碑を造るのか疑問だが、聞いたことをそのまま書いておく」と注記している。

 山伏の処刑については、熊本市熊本城調査研究センターの木下泰葉さん(30)が別の資料を見つけている。1784(天明4)年に編まれた「古今肥後見聞雑記」に「石こづミ(石子詰)」で殺されたとある。罪人を穴に落とし、上から石を詰めて圧死させる処刑法だ。

 熊本大の安高啓明准教授(法制史)によると、古代から近世初期に各地で行われていた方法。江戸中期以降は公事方御定書の施行で鋸[のこぎり]挽[びき]や磔[はりつけ]、斬首が一般化され、石子詰は見られなくなった。明治の人々にとっては、斬殺の方が石子詰よりも分かりやすかったのかもしれない。

 山伏塚は財務省の所有で、熊本市が1979年に文化財指定。地元自治会の小薗正雄さん(66)は「地域で守って来た山伏塚。これからも大事にしていかねば」。石碑に手を合わせ、表面の土やコケを落とすと「龍蔵院」の刻字がはっきりと現れた。(飛松佐和子)