姉の最期「語っておきたい」 甲斐田典利さん(88)

「とにかく優しい姉だった」と語る典利さん=長崎市茂里町、長崎新聞社

 甲斐田陽子さんの弟で元小学校校長の典利さん(88)=長崎市若竹町=は過去、自身の被爆体験の講話を何度も頼まれたが固辞してきた。思い出したくない記憶であり、自分の目の前で起きた出来事を伝えようとすればするほど言葉が出てこなかったからだ。だが、90歳に近づき「語っておきたい」。脳裏に焼き付く姉の最期をゆっくりと話し始めた。
 旧制県立長崎中1年、13歳だった。友人と諏訪神社(爆心地から約2.4キロ)のベンチに座っていた時、原爆がさく裂した。「写真のフラッシュ用のマグネシウムを目の前でたかれた感じ」。強烈な光を感じ、吹っ飛ばされた。何とか日見峠を超え、夕方ごろ、喜々津の家にたどり着いた。
 陽子さんはまだ、帰っていなかった。列車で戻ってくると思い、父と一緒に喜々津駅へ。だが、ホームに入ってくる列車の中を探すも見つからない。記憶では深夜まで待っていた。翌日の昼。玄関の前に、ボロボロの制服姿になった陽子さんが無言で立っていた。
 その3週間後、陽子さんの体調が急変。髪をくしでとくと、ごっそりと抜け落ちた。「髪が抜けやすい季節だからね」。母はそう言うと、自分の頭にくしを当て、手で髪を力いっぱいに抜き、陽子さんに見せた。
 入院後も病気の原因は分からず、薬もない。のどが日に日に腫れ、呼吸を苦しむようになった。「助けて」。娘の悲痛な叫びにも、両親は医師に頼むふりをするしかなかった。窓を開けて、空気を入れ替えてやるのが精いっぱい。両親と典利さんが見守る中、陽子さんが苦しそうに、大きく息を吸う。そして、そのまま逝った。体調急変からわずか1週間だった。
 典利さんは1人、病院から自転車に乗り、家路で泣きわめいた。「(原爆投下を決断した当時の米大統領)トルーマンを殺してやるけんね」
 陽子さんは家族の手で火葬された。心の中にぽっかりと空いた穴。悲しかった。でも、落ち込み続けることはなかった。典利さんは当時をそう振り返る。悲しみに暮れるより、みんなが生きることに必死な時代。父は戦後、亡くなるまで陽子さんのことを口にすることは一切なかった。
 典利さんは70歳を過ぎて遺影の中の姉に向かって話し掛けるようになった。最近はデイサービスの話題がもっぱらだ。「写真の顔は子どもの頃のままだけど、私にとってはいつまでも優しい姉。姉のことを話せてよかった」。そう言って、記憶を締めくくった。

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