新しい「日本の顔」ってどんな人 自民新総裁に菅氏、7年9カ月ぶり首相交代へ

菅義偉氏=9月14日午後0時59分、東京都内のホテル

 自民党の新総裁に、菅義偉氏が14日選出された。16日に召集される臨時国会で、首相指名選挙が行われ、7年9カ月ぶりに日本の「新しい顔」が誕生する見通しだ。安倍政権を官房長官として支えた菅氏は、どんな人物なのか。(共同通信=松本鉄兵)

 菅氏は1948年12月生まれの71歳。首相就任時の年齢が70歳を超えたのは、2000年以降では07年9月に就いた福田康夫氏=当時71歳=以来。大半が50代後半から60代前半で、安倍晋三首相より六つ年上だ。首相として、初の秋田出身者となりそうだ。

 「農家で育った私の中には、地方を大切にしたい気持ちが脈々と流れております」

 総裁選出馬を表明した2日の記者会見で、菅氏は「地方出身」をことさら強調した。

 冬になると積雪が住宅屋根の高さ以上になるという、秋田県雄勝町(現・湯沢市)で育った。同市の郷土史家、簗瀬均さん(62)によると、菅氏の父、和三郎さん(10年、92歳で死去)は南満州鉄道の職員として働き、戦後帰国した。

 地域が減反政策に苦慮する中、イチゴ栽培に目を付けた。「東京で売って日本一の産地を目指す」(秋田魁新報記事より)との思いを抱き、成功を収めた。町議を連続4期務めるなど地元の発展に尽くした名士だ。

1996年衆院選に出馬した菅義偉氏

 長男の菅氏は、高校卒業後に上京。簗瀬さんは「裕福とは言わないまでも恵まれていた。同級生たちのような集団就職ではなく、都会に出てみたかったのではないか」と推測する。

 上京後、段ボール工場に就職したが、「視野を広げるために学びたい」と考えるようになった。アルバイトをしながら受験勉強に励み、法政大学へ進んだ。

 卒業後は、横浜市を地盤とする自民党の故小此木彦三郎衆院議員の秘書となり、政治の世界に飛び込んだ。26歳のときだった。

 横浜市議を経て、47歳となった1996年10月、激戦の衆院神奈川2区から出馬し、国政進出を果たした。

 初当選は、故郷の秋田でも注目され、地区では花火を打ち上げ祝ったとの逸話が残る。当時の秋田魁新報夕刊には「わかりやすく、責任のある政治を実行したい」との菅氏の言葉が紹介されている。

再チャレンジ支援議員連盟選対本部の会合であいさつする安倍晋三氏と菅義偉氏(左)=2006年9月19日、東京・永田町の自民党本部

 2006年の自民党総裁選では、安倍晋三官房長官(当時)を支援する「再チャレンジ支援議員連盟」の結成を主導、直後に発足した第1次安倍政権で総務相に起用された。

 その際、推進したのが「ふるさと納税制度」だった。最近では、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)事業の推進に熱心で、地元・横浜市も誘致に名乗りを上げる。

 前出の簗瀬さんは「地域を良くしたいという父の思いが通じているのだろう。素朴で律義さがあり、忠犬ハチ公のような人だ。国難にあって、火中の栗を拾う心境だと思う。体に気を付けて頑張ってほしい」と話す。

新元号「令和」を発表する菅義偉氏=2019年4月1日、首相官邸

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 菅氏は、12年12月に発足した第2次安倍政権で、官房長官に就任。昨年4月の新元号発表後は「令和おじさん」として知名度を上げた。

 「苦労人」「たたき上げ」と称され、地味で柔和なイメージがある一方、「冷徹で人に厳しい」(関係者)との見方も根強い。

 参謀役として、党内外で影響力を示してきた他、中央省庁の幹部人事を一元管理するため、14年に新設した「内閣人事局」を取り仕切り、各方面ににらみを利かせた。

 政権が決めた政策の方向性に反対する幹部官僚については「異動してもらう」と言ってはばからない。

 17年以降は「モリカケ」や桜を見る会など安倍政権を揺るがすスキャンダルが次々浮上。真相究明に不可欠な公文書の改ざんや破棄なども繰り返された。背景の一つに、官邸によってゆがめられた「政官関係」があるとも指摘される。

内閣人事局の発足式で看板を掛け、写真に納まる菅義偉氏(右)ら=2014年5月30日

 政権に都合の悪い文書が出てきた際、記者会見で「怪文書」と一蹴してみせたり、「組織的隠蔽(いんぺい)を図ったとの指摘は当たらない」との受け答えに終始したりする姿は、国民の政治不信を加速させた。

 「安倍総裁が全身全霊を傾けて進めてきた取り組みをしっかり継承し、さらに前に進める」

 菅氏は、安倍政権の路線継続を明言する。一方、取り沙汰されたスキャンダルの多くは、未解明のままだ。新型コロナウイルスや経済対策への取り組みはもちろん、大きく傷ついた「政治の信頼」回復に正面から向き合うかが問われている。

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