演技、美術、照明…アンサンブルに愉悦 上白石萌歌主演の舞台『ゲルニカ』

▼東京・PARCO劇場で上演中の舞台『ゲルニカ』(作・長田育恵、演出・栗山民也)は、シリアスな題材だが、あえて「とても面白かった」と記したい。演技と美術、照明、音響、衣装のアンサンブルに愉悦を覚えた。これから観劇される方、観劇しようかなという方は本稿を読まずにおかれていいです。ただお伝えしておきますと、スペイン内戦時代の話だから取っつきにくいかなと構えることなく、『この世界の片隅に』のような、現代を生きる自分を重ねて、問いをもらえる作品に接する気持ちで、劇場へ向かわれていいのではないかと思います。欧米の話を日本の人々が演じる際に時々起きる、役人物と俳優の妙な剥離も感じません。

▼時代背景と作品の入口

 ゲルニカといえばピカソの絵。1937年4月26日月曜午後、スペイン北部バスク地方の町ゲルニカは、前年にクーデターを起こしたフランコ将軍の反乱軍を支援するドイツ空軍による無差別空爆を浴びて廃墟と化した。画家ピカソは惨劇を349cm×777cmのカンバスに刻みつけ7月、パリ万国博覧会で発表した。

 今回の舞台は、クーデターから空爆までの月日、ゲルニカに生きた人々のドラマ。どんな時代だったかといえば、スペインの王様は失脚して国を去り、共和政の世となって数年。政情は不安定で、左派の人民戦線政府に対して旧貴族や地主、カトリック聖職者ら保守勢力の不満が膨らんでいる。1936年7月、はるか南、スペイン領モロッコでフランコ将軍らの反乱軍がクーデターを起こし、内戦が始まる。

 クーデターが起きた日、ゲルニカでは、今は亡き元領主の家に生まれ育ったお嬢様サラ(上白石萌歌)が、いとこのテオ(松島庄汰)と婚礼の運びだった。しかし内戦勃発でテオは反乱軍に参加するため「聖戦だ」と喜び勇んで町を出る。婚礼は延期になった。

▼無邪気と芽

 充実の舞台から、本稿はヒロイン・サラを軸に前半の幾つかの場面を紹介したい。セットは全編通して少なく抑えられている。中でもサラの住む屋敷は色数まで少ない。婚礼の日の朝、寝室のサラは白いスリップ一枚。母親のように寄り添ってきた女中ルイサ(石村みか)に甘え、戯れる。そこに現れたサラの母マリア(キムラ緑子)は、ヒッチコックの映画『レベッカ』のダンヴァース夫人のように黒装束で、厳格で閉じている。屋敷の外界との隔絶ぶりと、隔絶ゆえのサラの無邪気、従順、芽を出している反発と自立心が、観客である筆者の私の中へ、つっかえることなく煙のように入り込み、充満していく。

▼むき出しの言葉

 婚礼が延期になった後、外界の場面は一転して彩りがある。夏らしいワンピース姿のサラは、かつて屋敷の料理人だった初老男性イシドロ(谷川昭一朗)のトルティーリャが食べたくて、彼が営む食堂を初めて訪ねる。そこは人民戦線側の男たちが集う場。無垢なサラの中に彼らへの悪気はない。一方、男たちは鬱積した憤懣をサラに向けて吐き出し、攻撃してしまう。むき出しの言葉を恐らくは初めて浴びたサラ。庶民がファシズムを、搾取を嫌悪し、「自由と平等を踏みにじる者は絶対に通さない!」と言う気迫に圧倒される。

▼母娘、決壊

 サラは青々と伸びだした茎をあっけなく折られたのだろうか―。場面は、サラが住む屋敷奥にある礼拝堂へと移る。一つの灯りとそれを映す一枚の大きな鏡だけで礼拝堂の像を浮かばせる。声の残響が空間の広がりを知らせ、真っ暗な床に白く通路のように十字を照明が刻む。母マリアが、ある人物をひざまづかせ、「あろうことか敵側と通じた!」と、背に容赦なく鞭を打ちつける。サラへの罰を、身代わりに向けて打ちつける。拷問部屋と化した礼拝堂に不似合いなワンピース姿のサラが「私を罰して」と悲鳴を上げる。ここから、場としての結界はもとより、親子の結界も決壊へと至る母と娘の応酬は、すこぶる見応えがある。

▼空爆と名画

 「奴らを通すな!」と言う人民戦線の結束が強く横に延びても、空爆は上から残酷に降る。「人類史上初」ともいわれる無差別都市爆撃、ゲルニカ空襲は、どう描かれるのか。ピカソの『ゲルニカ』と舞台はどうつながるのか―。演劇を見る醍醐味を味わった。(敬称略)

(宮崎晃の『瀕死に効くエンタメ』第140回=共同通信記者)

★舞台『ゲルニカ』…出演は他に中山優馬、勝地涼、早霧せいな、玉置玲央、林田一高、後藤剛範、谷田歩。スタッフは美術・二村周作、照明・服部基、音響・井上正弘、衣装・前田文子ら▽公演は9月4~27日・PARCO劇場▽10月9~11日・京都劇場▽10月17~18日・りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館▽10月23~25日・穂の国とよはし芸術劇場PLAT▽10月31日~11月1日・北九州芸術劇場。

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