外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(21)「感染」理由に選挙延期、香港沖に「新ベルリンの壁」ができるのか

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今回のコロナ禍を、最も政治的に利用したのは香港政府だろう。香港政府はコロナ禍を理由に、2020年9月6日に予定された立法会(議会)選挙の1年間延期を決めた。中国の全人代常務委員会は6月30日、香港国家安全維持法(国安法)を採択して即日実施し、香港警察はその違反容疑で民主派勢力の逮捕に乗り出している。香港の「一国二制度」の行方を探る。

                         (マンガ:山井教雄)

香港とコロナ禍

香港政府によるコロナ情報を公開する「ダッシュボード」によると、9月7日現在、香港域内の感染者数累計は21人増えて4879人、回復者が4511人、入院中が224人、重症者が22人、死者数の累計が98人だ。香港の人口は約745万人だが、それを137万人ほど上回る大阪府の感染者が同日時点で9043人、死者が165人なので、それと比べても、香港が比較的コロナの感染拡大を抑え込んでいることがわかる。

香港では2003年にSARS(重症急性呼吸器症候群)が域内の二つの拠点病院に拡大し、香港国際航空から世界各国へと感染を広げた苦い経験があった。今回も、対応は早く、1月26日には警戒レベルを最上級の「緊急」に格上げし、最初の感染地である中国・武漢との往来便を停止し、春節休暇の1か月延長を決めた。1月28日には中国本土からの帰還者の2週間の自己隔離、1月31日には公務員の自宅勤務と学校再開の3月1日までの延期を決めるなど、対応は素早かった。

さらに2月5日には中国からの渡航者の2週間の強制隔離を発表し、のちに違反者には2・5万香港ドルか、最長で懲役6か月の罰則を課した。

その後、公務員の在宅勤務と休校を何度も延長し、3月17日には、3か月にわたってすべての入境者に2週間の強制隔離と医療観察を義務付け、同29日には、4人を越える公の集まりの禁止やゲームセンター、サウナ、事務などの閉鎖、飲食店には席数半減、テーブル間の距離を1・5メートル取るなどの制限を決めた。

こうした初動の厳格な防疫措置が功を奏して感染者数は減り、5月26日には3月下旬以来停止していた香港国際空港のトランジット再開を決め、6月には公共の場の集まりを50人まで認めるなど、制限緩和の措置をとった。

しかし7月19日から1日の感染者数が100人を超え、香港政府は再び制限を強化する。7月19日にはマスク着用を屋内でも義務付け、27日にはデリバリー以外のレストランでの飲食禁止、公の集会は2人までという厳しい措置を取った。

感染がピークを過ぎた8月17日には、飲食店の昼間の営業を1卓2人まで認め、20日には公共サービスの段階的な再開を決めた。さらに9月2日には1卓2人という制限つきながら飲食店の午後10時までの営業を認め、9月23日からは学校の段階的な再開を予定している。

日本と比較しても、かなり厳しい措置に見えるが、それだけに経済的打撃は深刻だ。香港政府が7月29日に発表した今年4~6月期の実質域内総生産(GDP)は前年同期比で9%の減となり、1~3月期に次ぐマイナスを記録した。GDPの7割弱を占める民間消費支出が14・5%の減、本土からの旅行客が激減してサービス輸出が46・6%減になるなど、コロナ禍が経済を直撃した形だ。

だが、こうした統計数字には表れない香港社会の「疲弊」がある。香港では昨夏から、「逃亡犯条例改正」に反対する大規模デモが続き、秋には若者たちと警官が繁華街などで連日のように衝突する事態が続いていた。ホテルや大規模飲食店、ショッピング・モールなどでは営業を休むところが続出し、登下校時に児童生徒が混乱に巻き込まれることを恐れて、オンラインに移行した小中学校も多かった。その後、しばしの小康の時期を経て、今度はコロナ禍という別の大波が襲ってきた。しかも、香港政府とその背後にいる中国政府は、この機会に一気に反中勢力を封じ込めようとして、「国安法」という強硬策を取った。

たぶん、コロナ禍と中国の強硬姿勢というダブルパンチによって、今の香港はロープ際に追い詰められ、何とか両腕で顎と顔をガードしながらラウンドを持ちこたえ、今はコーナーで疲れ切った体を休ませながら、次のゴングが鳴るのを待つボクサーのようなものだろう。

ジャーナリスト野嶋剛さんと考える

香港の今とこれからを、どうとらえたらよいのか。ジャーナリストの野嶋剛さんに9月6日、ZOOMでインタビューをした。

野嶋さんには、台湾編でも話をうかがったが、その後の8月10日に出版された最新刊の「香港とは何か」(ちくま新書)を読み、ぜひ香港の話を聞いてみたいと思った。

ちなみに、本書でも冒頭に出てくるが、野嶋さんが初めて香港に行ったのは大学1年生の1987年で、香港のキリスト教系のNGOから東京に依頼が舞い込み、香港で聖書を受け取って大陸の「地下教会」に運ぶ仕事をボランティアとして請け負ったときだという。大陸中国よりも、経由した香港の魅力に取りつかれ、大学3年時には上智大を休学して1年間、香港中文大に留学し、英語と広東語の授業を受けた。

本書は4年前から構想を温めて準備を進め野嶋さんは重要な行事や節目ごとに現地で取材をしてきた。昨年の抗議デモが起きてからは月に一度は現地に飛び、今春には出版できるまでになっていたが、校正が出た段階で、中国が国安法を準備しているという情報をつかんだため、その経過を盛り込んで最新のバージョンに書き改めた。

最近の「国安法」の動きを知るには、まず昨年の大規模抗議デモ、さらには6年前の「雨傘運動」にまで遡らねばならない、と野嶋さんはいう。

香港では2014年の9月から12月にかけ、民主化を求める若者たちの大規模デモが繰り広げられた。警察官が浴びせる催涙弾を、学生たちが傘で防いだことから、「雨傘革命」「雨傘運動」という名前がついた。

英国と中国は1997年の香港返還時に、50年間は、香港特別行政区において、外交と軍事を除く政治体制を存続させることで合意した。いわゆる「一国二制度」である。

香港では2017年から、首長の行政長官選挙に、これまで繰り延べされてきた「直接選挙」を導入することになっていた。しかし2014年8月末、中国の全人代常務委員会は、各界代表から成る指名委員会が長官選挙の候補者を2、3人に絞ると決めた。指名委員会は親中派が支配しているため、これでは「直接選挙」とはいえない。

これに抗議する大学関係者らが、「オキュパイ・セントラル」を呼びかけた。ここでいう「セントラル」とは、香港金融の核である「中環」を指す。「オキュパイ・ウォール・ストリート」のように、大衆を動員して民主化を要求するという狙いだった。

しかし事態は意外な展開をたどった。「オキュパイ」に先駆けて、大学生や高校生が授業ボイコットをして、香港政府庁舎のある金鐘や、商業の中心である銅鑼湾、九龍半島にある旺角などの繁華街で座り込みやデモを始めたのである。

占拠した学生たちは「非暴力抵抗」の姿勢をとったが、街頭での混乱が長引くにつれ、金融や商業、観光で成り立つ香港経済への影響が出始めた。大陸からの買い物客が減ったことも大きい。民主化を求める学生への同情や共感は、次第に混乱に対する疲れや嫌気に変わっていった。

この間、香港政府は学生との対話に臨んだものの、学生が求める全人代決定の撤回表明には応じず、話し合いは物別れに終わった。学生たちは住民投票などの道を模索したが、路線は定まらず、警官による排除で終わった。

もともと香港の民主派は、「非暴力」「不服従」という穏健な抵抗運動を基調としてきた。しかし、この「雨傘運動」の行き詰まりを見て、若い層の間から「本土派」と呼ばれる新興政治が勢力を広げた。そう野嶋さんは指摘する。

沖縄では、沖縄以外の日本のことを「本土」と呼ぶので、私はこの名称を知って、最初は若干、混乱した、沖縄風に言えば、本土は「大陸中国」を指すのでは、と誤解したのだった。しかし野嶋さんが言うのは、「本土」とは「故郷」つまり「香港」を意味するのだという。

野嶋さんによれば、その核心は本土思想の理論的指導者と言われる陳雲によって、「香港本位、香港優先、香港第一」という標語に要約される、という。

こうして「雨傘運動」のあと、日本でも広く知られる周庭(アグネス・チョウ)や梁天琦(エドワード・レオン)、游蕙禎(ヤウ・ワイチン)といったカリスマ的な若手活動家が登場し、強い影響力を持つようになる。

「雨傘運動」で注目を集めた周庭氏は、「学民の女神」と言われ、日本では「民主の女神」とも紹介される。黄之鋒(ジョシュア・ウォン)氏が作った愛国教育に反対する中高生のグループ「学民思潮」の運動に参加し、その後は本土派の中でも民主派に近い「香港衆志(デモシスト)に連なっている。「一国二制度」は真っ向から否定せず、「民主自決」を唱える立場だ。

梁天琦氏は武漢生まれで香港に移住し、子どものころから中学の歴史教師の父に歴史を教わり、香港大大学院に進んだ。「雨傘運動」で彼が使い始めた「光復香港、時代革命」という言葉は、その後「独立派」のスローガンになる。彼は2016年2月、九龍半島の旺角で露天商の規制を強めた香港政府に若者たちが抵抗し、警察と衝突した「旺角騒乱」に加わり、翌年、暴動罪、扇動罪、警官襲撃罪などで起訴された。

彼は起訴前の2016年2月の立法会の補欠選挙に出て落選したものの、15%の得票を獲得して健闘し、「我々は民主派ではなく、本土派」と名乗りを上げた。彼は同年9月にも正規の立法会に「本土民主前線」から立候補を表明したが、DQ(失格)制度の壁に阻まれた。

香港政府は選挙直前に、選挙管理委員会が候補者に、「香港基本法を擁護する」「香港は中華人民共和国の一部分である」などと認める「確認書」を取り付ける措置を決め、それがなければ候補の資格を認めないとした。「DQ]はこうした制度運用を指す。

梁は制度無効の訴えを起こしたが裁判所に認められず、やむなく確認書に署名したが、それでも立候補を認められなかった。彼は代わって本土派で独立色の強い「青年新政」のリーダー梁頌恆(バッジョ・レオン)氏の応援に回って当選させたが、2018年、禁錮6年の判決を受けて収監された。

梁天琦氏が応援した本土派政党の「青年新政」から2015年の区議会選挙に出て善戦したのが游蕙禎氏だ。彼女は2016年の立法会選挙に当選した本土派6人の1人になったが、当選後の議会宣誓式の日に、「香港は中国ではない」という青い旗を宣誓台に被せ、宣誓無効によって、梁頌恆氏と共に立法会から追放された。さらに、游蕙禎は宣誓後、議会に入ろうとして押し問答になり、警備員に暴力をふるったとして刑事訴追された。

こうして野嶋さんから、雨傘運動から「本土派」が生まれ、立法会に若者たちを送り込んだ「前史」を聞くと、香港中の街頭に抗議デモが吹き荒れた2019年の「暑い夏」が、ただの暴動ではなく、長く抑え込まれ、鬱屈した香港の人々の憤懣の発露であったことがよくわかる。

「逃亡犯条例」の改正が大問題に

おそらく一件の殺人事件が、これほど大きな社会問題につながった例は、そうないだろう。きっかけは、2018年2月に台湾で起きた殺人事件だった。台湾で旅行中の香港人学生カップルの喧嘩がもつれ、男が女を殺害し、死体を遺棄した。男は香港に逃げ帰り、奪ったカードで金を引き出し、窃盗容疑で逮捕され、殺人や死体遺棄も認めた。

問題は香港が、台湾との間に犯罪者引き渡し条約や相互法的援助条約を結んでいない点にあった。殺人は台湾で起きたので、台湾の司法当局が証拠を集め、立件する。香港で窃盗を立件できても、殺人罪では裁けない。

では従来のように双方の司法当局が協議して引き渡せば、それでいいではないか。あるいは、本件に限って条例を改正し、容疑者の身柄を台湾に引き渡せばいいのではないか。ふつうはそう考える。だが香港の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は2月、これを機に「逃亡犯条例」を全面改正して、本件に適用する道を選び、改正案を公表した。

香港は、中国やマカオとも犯罪者引き渡しの取り決めを結んでいなかった。もし条例案が改正されれば、香港に逃げ込んだ中国人、あるいは中国で罪を犯した香港人も、その対象になるのではないか。そうした恐れが急速に高まった。

背景には、それまでにも、中国本土で香港人が別件逮捕されたり、厳しい取り調べを受けたりする事例があったからだ。その典型は2015年に起きた「銅鑼湾書店事件」だった。これは、香港の繁華街コーズウエイ・ベイ(銅鑼湾)を拠点に、中国当局の内幕本を出版していた同書店の店長や株主ら5人が、香港や深?などで相次いで失踪し、中国当局に拘束された事件で、世界的に波紋を広げた。中にはスウェーデンなど外国籍の関係者もいたからだ。

条例改正は、民主派への圧力、あるいは言論の自由への弾圧につながるのではないか。香港では6月に主催者発表で百万人の抗議デモが起き、7月1日にはデモ隊が立法会を一時占拠。さらに8月になると数千人規模のデモ隊が連日、香港国際空港のロビーを占拠し、航空便が全便キャンセルになる騒ぎになった。

業を煮やした香港警察は8月30日、「雨傘運動」のリーダーだった黄之鋒、周庭の両氏を、6月の抗議活動を煽動した容疑で、一時身柄拘束したが、その日のうちに釈放した。

しかし、学生や市民の抗議活動は収まらず、林鄭月娥行政長官は9月4日、逃亡犯条例改正案を正式に撤回し、3か月の混乱に終止符を打とうとした。だがその時までに、市民の要求は行政長官の辞任や警察の暴力追放、普通選挙の実施にまで広がっており、一向に引き下がる気配はなかった。

中国の建国70周年にあたる国慶節の10月1日には、大規模な抗議デモが10か所以上で開かれ、警察官がデモ隊の18歳の高校生に実弾を発射し、重体になる事件が起きた。林鄭月娥行政長官は10月4日、香港が緊急事態に陥ったとして行政長官に権限を集中させる「緊急状況規則条例(緊急法)を約50年ぶりに発動し、立法会の審議を経ないまま、デモ参加者がマスクなどで顔を覆うことを禁じる「覆面禁止法」を制定した。コロナ禍が広がる今から思えば皮肉な話だが、当時の活動家は、高性能の監視カメラ分析で、顔から身元が割れることを恐れ、覆面をするのが一般的だった。緊急法の発動は1967年の大規模暴動以来で、中国への返還以降では初となった。

11月4日になって中国の習近平国家済咳は香港の林鄭月娥行政長官と上海で会談し、混乱の収拾に向けて強い態度で臨むよう求めた。こうしてその後も警察とデモ隊の激突はエスカレートし、11月8日には立体駐車場から転落した大学生が死亡する事件が起きた。

香港警察は11月11日から、若者たちの拠点になっていた香港中文大や香港城市大、香港理工大などのキャンパスに部隊を派遣した。11月19日には、香港理工大に立てこもっていた約600人の若者が投降し、市民の抗議は11月24日の区議会選挙に引き継がれることになった。

結果は、全452議席のうち、民主派が開戦前の約3割から大きく議席を増やし、8割を超える圧勝だった。民主派が過半数を占めるは初めてで、歴史的な勝利になった。

2022年に予定される行政長官選挙で、投票資格を持つ選挙委員(1200人)のうち、117人は区議の互選で選ばれるが、その全てが民主派の手に渡る見通しになった。

この民主派の攻勢に、さらに米国の後押しが加わった。トランプ大統領は11月27日、「香港人権・民主主義法案」の署名して、同法が成立した。米国務省に「一国二制度」の検証を求める内容で、香港の民主派を支援する態度を鮮明にする内容だ。

こうして皮肉にも、民主派の圧勝と米国の後押しが、「国安法」という今回の中国の強硬姿勢を引き込む呼び水となった。

「目標は選挙」と明確に

私事になるが、私は07年~11年にかけて香港に編集委員として駐在し、その後も年に1度は香港に行って変化を見守ってきた。2014年の「雨傘運動」も取材し、中高生が活発に政治の表舞台に登場したことに驚かされた。

だが昨年10月下旬から11月にかけ、2週間にわたって香港に滞在した際には、抗議デモの先鋭化に目を疑った。

若者たちはゴーグル、ヘルメットで防備を固め、スマホの色で「進め」「退け」「要注意」の合図を送り、アプリで警察やパトカーの位置を教え合っていた。警察側に立っているという理由で地下鉄券売機や銀行のATMを破壊し、中国寄りの飲食店を壊した。

九龍半島の北にある新界地区では、ショッピングモールの柱が毎日、ビラで埋め尽くされ、どのような装備が必要か、どのような指示を仰げばいいのかを伝えあった。駅の通路には隙間なく、メッセージが貼られ、道路には「光復香港、時代革命」のスローガンが大書されていた。

警察も警告の横断幕を掲げると、すぐに催涙弾を発射し、捕まえた若者を足蹴にした。

路傍にいる大勢の市民も逃げ遅れ、身柄を拘束された。衝突がいつ、どこで起きるのかまったく予測がつかず、交通網も寸断されることが日常だった。

だが、そうした混乱の中でも、ある種の「了解」が成立しているらしいことがわかり、それはそれで不思議だった。救急医療関係者、報道陣は、きちんと色分けされた「制服」を着て、デモ隊も警察も、原則として手を出さない。デモ隊に抗議する通行人が袋叩きにされることはあったが、少なくとも第三者には手を出さないという暗黙のルールがあったように思う。だが私には、「民主派」の大人たちが、「勇武派」と呼ばれる若者たちを前面に押し出して、傷つかせることは、許せないような気がした。政治的な立場は別にして、血気に逸る若者たちを制し、対話に切り替える回路を作り出すのは、大人たちの役割だと思った。

だが、そうした私個人の感想をぶつけると、野嶋さんは、「それは少し違うのではないか」と言って、彼の見方を話してくれた。

目標が漠然としていた「雨傘運動」とは違って、昨年は運動を区議選につなげるという明確な目標があった。立法会選挙も行政長官選も、本来は親中派に有利なように制度設計されているが、その見かけの「優位」を覆しかねないほど、香港の「民主と自由」を求める民意は高まっている。だからこそ、中国当局は、香港を制御できなくなることを恐れ、今回の「国安法」のような強硬策を取った。それが野嶋さんの見方だ。

今回の立法会選では、民主派が予備選挙を行い、穏健派から勇武派まで、その選挙区で一番人気のある候補を本選挙に立てる統一戦線ができていた。「一国二制度」は形の上では「民主選挙」を保障するが、実態は親中派に有利だ。しかし、それを押し戻すほどの民意の高まりを、中国当局は恐れているのかもしれない。国安法を導入後の7月31日、香港政府は、新型コロナの感染拡大防止を理由に、立法会選挙の1年延期を決めた。

中国は、香港の治安に直接介入し、その意を受けた香港警察は8月10日、民主派の有力者で、中国に批判的な香港紙「リンゴ日報」創業者の梁智英(ジミー・ライ)氏と、周庭氏を国安法違反の容疑で逮捕した。いずれも国家の分裂を図ったという疑いだが、容疑の内容は今一つはっきりせず、捜査は外国勢力との資金面での結びつきに関心を寄せている模様だ。二人はいずれも釈放されたが、起訴されるかどうかはまだ明らかではない。

香港政府は国安法施行後、この日までに21人を逮捕したが、当初は「香港独立」の旗を持つ市民らを現行犯逮捕するにとどまっていた。梁氏や周氏の逮捕は、今後は海外に発信力のある活動家にも捜査のターゲットを広げる動きとして香港社会に衝撃を与えた。

だが周氏をはじめ、活動家には、国安法の施行後は政治活動を控え、ツイッターでの発信をやめた人も多い(周氏はその後再開)。活動停止後も事後的に遡って訴追するのは、罪刑法定主義の「法の不遡及」の原則に反するのではないか。

私のその質問に対し、野嶋さんは、「中国の国家安全法の国内運用を見ると、過去の言動が現在の容疑の立証の補強材料に使われることがある。周庭氏の場合、日本語が堪能なので、日本には彼女のツイッターに50万人近いフォロワーがいる。当局は、彼女の日本への影響力を恐れたのではないだろうか」

米中の覇権争いは、今や世界を巻き込みつつある。その時に、中国との経済的なつながりが深い日本を、せめて反中ではなく、「中立」の状態に留めておきたい。中国側がそう判断していると考えても、おかしくはない。

だが、「一国二制度」はもともと、中国の最高実力者・鄧小平が、台湾の回収を念頭に考えたモデルだった。たまたまサッチャー英首相との交渉で、1984年に英中共同声明が出され、それが国連にも登録されて国際的にも認められ、香港の「憲法」ともいうべき香港基本法に基づく「一国二制度」が先行実現した。だが、特別行政区になっても、50年間は香港に「高度な自治を認める」という約束は、今回の中国による直接介入によって骨抜きにされた。林鄭月娥行政長官は9月1日の定例記者会見で、「香港には三権分立はない」と発言し、中国政府の意向を受けて施政を行う行政権が、立法権や司法権に優先する、という考えを示した。

こうした姿勢を、台湾の民進党の人々は、どう受け止めるだろう。「一国二制度」は、やはり建前に過ぎず、いったん回収されれば、「中国化」されると反発するに違いない。それは、平和裏に台湾を回収したいと考える中国指導者にとっても、不利な展開ではないか。私がそう尋ねると、野嶋さんは、習近平政権になってから、明らかに対香港政策が変わったと感じるという。

先鋭化の裏にある世代間の意識の差

しかしなぜ香港では「雨傘運動」以来、これほど多くの中高生が抗議活動に参加するようになったのか。この点について私は当時、香港城市大学で公共政策を教える葉健民教授に話を聞いたことがある。

当時の梁振英・行政長官は外国メディアとの会見で、学生が求める選挙制度改革について、「住民が代表者を選ぶようになれば、香港住民の半分を占める月収1800米ドル以下の所得層が代表者を決めることになる」と発言した。つまり、当時の換算で月収20万円以下の人々による代表決定は、中国が求める選挙にはなじまない、とする露骨な本音だった。香港の市民は「一国二制度」に「香港人による香港統治」(港人治港)を期待したが、それは許さない、という警告とも受け止められた。

梁長官の発言について、葉教授は、「月収1800米ドル以上なら、香港では中流階級です」と答え、経済格差に対する若者の不満について説明してくれた。

葉教授によると、雨傘運動を主導したのは「90後」と呼ばれる1990年代生まれの世代だった。この世代は、保守的な「80後」世代に比べ、行動においては直接的、攻撃的で、政党政治に対する不信感やシニカルな態度が目立つ。新聞などは読まず、ネットニュースも見出しを読み流すだけで、情報はもっぱらフェイスブックで仲間から入手することが多い。葉教授は「雨傘運動」の行き詰まりについて、同時並行で台湾で生まれた「ひまわり学生運動」が、その年の末の統一地方選で無所属候補を台北市長に当選させたことを引き合いにして、「カウンター・デモクラシーは、最終的に選挙の投票行動に『翻訳』するのでなければ、力をもたない」と語っていた。

そうだとすれば、区議会選での圧勝につなげた昨年の抗議活動は、民主派にとっては、「雨傘運動」から教訓を学んだ「成果」ともいえる。だが不幸にも、その「港人治港」の要求の高まりが、「愛国者治港」を求める中国の逆鱗に触れた、と言えなくもない。

世代による意識の違いについて、香港では09年に高校の必修科目になった「通識教育」の影響を指摘する声も多い。これは中国が求める「愛国教育」とは一線を画し、「報道の自由」など、西側世界と通じる時事問題をテーマに議論し、考える教養科目だ。「雨傘運動」で前面に出た若者たちは、そうした「通識教育」で学び、「愛国教育」の導入に反対した世代と重なっている。

香港返還の1997年に生まれた世代は、もう23歳になった。返還以前を知る世代は、英国の植民地統治下で、「民主」も本当の「自由」もなかったことを知っている。だが返還後の世代は、「一国二制度」で保障された「民主」や「自由」が所与の前提であり、それが実現しきれていないことを疑問に思い、剥奪されることには激しい抵抗感を覚える。

若者たちの先鋭化の背景には、そんな意識の違いがあるのかもしれない。

洋上に「新ベルリンの壁」?

戦後の冷戦の到来を、世界のだれもが実感するようになったのは、アジアでは1950年に勃発した朝鮮戦争であり、欧州では「ベルリン封鎖」問題だった。

戦後、西側と東側に分断占領されたドイツで、東側に囲まれたベルリンだけは、特別の地位にあった。旧ソ連軍が米英軍に先駆けてベルリンの西側まで占領したため、ベルリンだけが東の統治区域に浮かぶ「陸の孤島」になってしまったからだ。

1948年に旧ソ連は、西側が統治するドイツとベルリンを結ぶ陸上路を封鎖したが、アメリカは大空輸作戦で物品を大量空輸したため、旧ソ連は10か月後にベルリン封鎖を解除した。しかし、その後も往来自由なベルリン経由で難民が西側に流入する動きが続き、旧ソ連は1961年8月、西ベルリンとの間に「壁」を建設し、動きを遮断するようになった。これが、1989年に民衆によって壊された「ベルリンの壁」だ。

今回の国安法の施行の後、訴追を恐れて海外へ脱出する活動家が少なくない。香港メディアは8月27日、船で台湾に逃れようとした香港の民主活動家ら12人が、23日に南シナ海の海上で中国海警局に不法出国の疑いで身柄を拘束された、と報じた。拘束されたのは、国安法違反の疑いで香港警察に逮捕され、保釈中だった民主活動家の李宇軒氏らだった、という。

野嶋さんはこうした報道を見聞きして、「香港と台湾の間に、新しい『ベルリンの壁』が生まれつつあるのではないか、と直感的に思ったという。

その場合、洋上の「壁」は米中の「新冷戦」の象徴だろう、と野嶋さんは言う。

野嶋さんは、最近の米国内の対中観を見て、「70年代体制の終わり」を感じるという。1972年2月に当時のニクソン米大統領は電撃訪中をして、米中共同宣言を出し、世界を驚かせた。中ソ対立の間隙を衝いて中国と手を結び、対ソ包囲網をさらに強めるという狙いからだった。

旧ソ連が崩壊し、冷戦が終わっても、西側は中国にいかにコミットし、国際社会の一員として責任ある態度を取らせるかを、基本戦略としてきた。2010年ごろまでは、米国でも日本でも、中国をいかに民主化させ、社会改革に舵を切らせるかという議論が盛んで、それが「親中国派」の期待であり、論拠でもあった。だがここ数年、南シナ海をめぐる基地建設などで、中国に覇権を唱える傾向が強まり、今回の香港介入で、かつての「親中派」の存立基盤は失われたかに見える。かりにトランプ政権が終わり、バイデン民主党政権が誕生しても、「70年代」から続いた「コミットメント戦略」が往時の勢いを取り戻すことはないだろう、と野嶋さんは言う。

「自由なき香港」の行方

「新・ベルリンの壁」という野嶋さんの言葉を聞いて、私は香港に駐在していた08年当時に会った民主派の長老、香港の民間団体連合「支連会」主席の司徒華氏の言葉を思い出した。当時は天安門事件から20周年で、香港でもようやく、天安門事件の秘話が明かされるようになっていた。

天安門事件の学生指導者のかなりの人は世界に散って亡命したが、その脱出を支援したのが「黄雀行動」(英語名イエローバード作戦)と呼ばれる地下活動だった。名乗り出たのは、密輸で財を成した裏社会の大立者・陳立鉦氏で、文化大革命当時、中国から香港に泳いで逃げてきたという人物だった。

一方当時「支連会」も、天安門事件の指導者と密かに連絡を取り始めており、「支連会」が脱出者の選定と受け入れを担当し、陳氏らが実行役を請け負うという分業体制ができた。

作戦には10隻以上の快速艇や数隻の中国式帆船、2隻の大型貨物船が使われ、89年6月から12月までに133人を脱出させた、という。陳氏が抜けた後は、支連会が引き継ぎ、総計300人の学生や知識人を逃したという。

ところで、なぜ作戦を「黄雀」と名付けたのか。私がそう尋ねると、司徒華氏は達筆で紙にこう書いた。

曹操の子、曹植の漢詩「野田黄雀」の一節だ。この詩は兄の曹丕に狙われた曹植が、次々に捕らわれる側近を網の中の黄雀にたとえ、剣を抜いて網を裂き、その黄雀を空に逃がす心情を託した詩だという。司主席はそう言ったあと、紙に次の言葉を書いた。

今日の北京は、明日の香港だ。天安門の活動家を逃した香港人の心情は、それが明日の我が身だという決死の覚悟に根ざしていたという意味だ。

香港は、大陸からの移民や難民で膨張を続けた町だ。国共内戦では上海や広東から大量の難民が押し寄せ、文化大革命の時代にも、多くの若者が海を渡って香港に逃れた。それは、かりそめの安住の地であっても、香港にはつねに「自由」の灯が点っていたからだろう。

香港は「一国二制度」という「民主」と「自由」の保障によって、中国の特別行政区になった後も、特殊な地位を保ち、金融センターとして、あるいは中国ビジネスの司令基地として、繁栄を続けてきた。だが、今後も「中国化」が続くなら、香港の魅力は失せ、その繁栄すら危うくなるかもしれない。

野嶋さんは、これまで香港を足掛かりに中国ビジネスを展開してきた日本の人々は、香港で起きていることに、もっと関心を持ってほしいと訴える。

ジャーナリスト 外岡秀俊


●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。