徹底した自己管理、恋人宅にバット… 高橋慶彦が猛練習した広島時代の真実

広島・ロッテで活躍した高橋慶彦氏【写真:編集部】

広島で今でも人気を誇る高橋氏の成功と成長秘話

33試合連続安打の日本記録保持者で、1970年代後半から1980年代前半にかけて広島カープ黄金期のレギュラー遊撃手として大活躍した高橋慶彦氏。プロ入り後にスイッチヒッターに転向し、球界を代表する好打者となった。今でも広島で絶大な人気を誇る高橋氏は“練習の鬼”と呼ばれていた。その裏には現役当時、豪快なイメージとは裏腹に綿密に考えられた野球の向き合い方があった。

1974年夏に東京・城西高の4番・エースとして甲子園出場を果たした高橋氏は、同年ドラフト3位でカープ入り。入団発表のため、東京から夜行列車で広島へ向かった。当時の新幹線は岡山止まり。広島を含む岡山-博多間が開業するのは、翌75年3月のことである。入団発表でかぶったカープの帽子は紺色。やはり翌75年に、ジョー・ルーツ監督の発案で帽子とヘルメットが燃える闘魂を表す赤色に変わり、現在に至っている。

入団と同時に野手に転向し、俊足を生かして右打席1本からスイッチヒッターとなることを命じられた。広島市・三篠(みささ)の寮に入寮すると、深夜も隣接する室内練習場を独占し、伝説的な人並外れた練習量をこなした。

「9歳で野球を始め、18歳まで10年間、右打席で打ってきた。ならば、この1年間で10年分左で振ればいいじゃないか、と考えた」と事もなげに言うが、簡単に実行できる話ではない。当時のカープは、新人選手が全員、宮崎・日南での1軍春季キャンプに帯同していたが、そこで1軍内野守備コーチであり、この年の5月にルーツ監督の突然の辞任を受けて、監督に昇格することになる古葉竹識氏から、こう声を掛けられた。

「慶彦、プロっていうのは、足だけでも飯が食えるんだぞ」。

この一言に、やる気をかき立てられたという。シーズン中の猛練習には、左打者としては山本一義1軍打撃コーチ、右打者としては藤井弘2軍打撃コーチが付き添ってくれた。

「寮という、外部からシャットアウトされた環境もよかったと思う」。今では信じがたいことだが、当時、市販されていたプロ野球の選手名鑑には、選手の住所、家族構成なども掲載されていた。やがて甘いマスクで若い女性ファンに人気を博し、ファンレターが1日150~200通も届くようになる高橋氏が1人暮らしをしていたら、ファンが殺到し練習どころではなかったかもしれない。

1年目は月給10万円、年俸120万円。当時のカープの条件は、他球団に比べて著しく低かった。用具メーカーからの提供もなく、バットやグラブを買うのも自腹で、月に2、3万円しか残らなかった。それでいて、寮の食事は驚くほど豪華で、牛肉やステーキが連日食卓に上がった。「高校時代までは牛肉なんてほとんど食べたことがなくて、鶏肉、豚肉、カキフライくらいのものだったから、目を丸くしたよ」と笑う。

高橋氏は、自身が球史に残るスイッチヒッターへ成長できた理由を「寮で自由に練習できる環境があった」「給料が安くて遊びに行く金がなく、時間だけはあった」「古葉氏の言葉のお陰で、やる気がみなぎっていた」と、大きく分けてこの3点にあるという。

「その点、今の若い選手は大変かもしれない。給料はいい、遊ぶ金がある、おまけに練習のし過ぎはいけない、と言われるのだから」と指摘した。

野球が下手だったから練習しないといけなかった。プロに入っても変わらない貪欲な姿勢

3年目の1977年の後半から遊撃のレギュラーとなっても、猛練習は変わらなかった。当時の高橋氏のルーティンは凄まじい。「睡眠は7、8時間取るようにしていたけれど、それ以外は暇さえあればバットを振っていたかった。頭の中に自分なりの“時間割”があった」と話す。周りからは猛練習と言われるが、高橋氏にとってみれば、睡眠時間から逆算して、練習時間を振り分けているだけという感覚。空いた時間を練習に充てていただけ。効率よく練習した結果、練習時間が人よりも多かった。

本拠地・広島市民球場でのナイターに出場する場合、午前9時半頃起床し、朝食を30分取った後、室内練習場で約3時間打撃練習。市民球場に移動して午後2時から2時間チーム練習に参加し、相手チームの練習中も、午後6時の試合開始直前までベンチ裏でティー打撃に取り組んだ。試合終了後、寮で夕食と風呂を済ませると、ようやく増額された給料を持って軽く夜の街に繰り出すこともあったが、寮に戻ると就寝前に必ずバットを振った。「当時交際していた東京の彼女の家にも、バットを置いていたからね」と付け加え、ニヤリと笑った。

「野球が下手だから、練習するしかなかった。というより、むしろ下手で良かった」とも語る。「10段階で1からスタートした人間は、2、3、4とレベルアップする従って、自分がうまくなっていく実感と喜びがあり、どんどんやる気が湧いてくる。しかし、最初から7や8にいる連中は、努力してもなかなか自分の上達を実感できず、つらくなってくる」。

また、誰も見ていない所でもバットを振り続けた高橋氏は、レギュラーを獲得し生意気盛りの頃、知人の会社社長から「慶彦、“人”という漢字を見ろ。人は人に支えられて生きているんだぞ」と諭されたが、こう言い返したという。「いいえ、1人でも、股を広げて立てば“人”という字になるので、自分で頑張ります」。

しかし、現役引退後、「あれは間違いだった」と思い返したという。「親父とおふくろのお陰でこの世に生まれ、高校時代の先輩や監督のお陰で体力、気力がついた。そして、カープという良い“畑”に入れたことを含めて、俺は人との出会いのお陰で生きてきた」と。63歳となった男の笑顔は、穏やかさを帯びていた。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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