高橋慶彦氏が語る広島黄金期の実像 「みんな古葉監督と同じ考え方だった」

広島・ロッテで活躍した高橋慶彦氏【写真:編集部】

古葉監督の言葉に奮起「おまえが出てくるか、俺がクビになるか、どっちかだ」

かつて、絶大な実力と人気を誇った高橋慶彦氏がスター選手として活躍していた広島。古葉竹識氏が監督を務めた1975年から85年までの11年間に、リーグ優勝4回、日本一3回を成し遂げ、空前の黄金期を築いた。古葉氏の秘蔵っ子で、77年の後半からレギュラー遊撃手として活躍した高橋氏が、強さの秘密を明かした。

1975年に球団創設初優勝を飾ったカープだが、翌76年から3年間は再び栄光から遠ざかった。その間、走力を買われて77年の後半から「1番・遊撃手」としてレギュラーに抜擢されたのが高橋氏だった。「おまえが出てくるか、俺がクビになるか、どっちかやな」。古葉監督はそう語りかけたという。それほど、このプロ3年目の弱冠20歳に賭けていた。

内野手として入団後、いったん外野へコンバートされていた高橋氏が、再び内野へ舞い戻る形になった。というのも、77年当時のカープの外野陣は、左翼・水谷実雄氏、中堅・山本浩二氏、右翼はジム・ライトル氏で、いずれも打線の中軸。高橋氏の付け入る隙はなかった。そこで、遊撃にコンバートし、レギュラー遊撃手だった三村敏之氏を二塁へ。正二塁手でベテランの域に差し掛かりつつあった大下剛史氏は、出場機会を減らすことになった。

高橋氏が守備に就く際、古葉監督が強く言い聞かせたのは、「ボールから目を切るな」だった。実に簡単なことのように思える。ところが、高橋氏は「やってみてわかったけれど、人間はどうしても集中力がプツッ、プツッと切れる瞬間があるのよ。すると、ベンチから『くぅおら、慶彦! 目を切るなと言っただろっ!』と怒鳴りまくられたからね。目を切っちゃいかん、目を切っちゃいかんと、頭がいっぱいになったよ」と身をすくめる。

やがて「目を切らないこと」が脳に刻み込まれた頃、高橋氏は自身の変化に気付いた。「集中力がどんどん増していって、相手打者がカーンと打った瞬間、イニング、点差、風向き、ランナーの走力、味方の守備位置など、インプットしておいた情報が瞬時に頭に浮かぶようになったんよ」。

主砲の衣笠氏が自らセーフティスクイズも…浸透した古葉野球

古葉監督による教育は、チーム全体に浸透していた。「1番強い時のカープには、ほとんどサインもなかった」という。特にレギュラークラスはみんな、サインが出るまでもなく、自ら状況を判断し、最適な作戦を遂行することができた。

たとえば、同点で試合終盤を迎え、無死二塁で高橋氏が打席に入ったとする。「味方の救援投手陣の顔ぶれから見て、ここで1点取れば勝てる。ならば、走者を三塁へ進めることが先決だ。しかし、相手投手と自分の力関係を考えると、ライト方向へ進塁打を打つのは難しいかもしれない」と状況判断。セーフティバントを選択したことがある。走者も同じことを考え予測しているから、びっくりされることはなかったという。主砲の衣笠祥雄氏がノーサインでセーフティスクイズを決めたことまであった。

「代打陣にしても、点差をつけられている時はこの人、一打逆転の時はこの人、という風に性格によって使い分けていた。代打も、代走も、リリーフ投手も、みんなが自分の出番を読んで準備していた」とも。

ピンチで内野陣がマウンドに集まった時も、全員が古葉監督の考えを共有していたから、投手の顔色を見て、持ちこたえられるかどうかを判断することができた。「投手コーチがベンチを飛び出してマウンドへ駆け寄ってくるのを、『大丈夫、大丈夫、まだ大丈夫だから!』とみんなで制したこともあったよ」と笑う。

これほど野球の本質をたたき込まれたチームだから、1979、80、84年に日本一に輝いたのも必然的だった。古葉監督の丹念な選手教育のたまものである。「重箱の隅をつつくような感じ。懇々と野球を教えてもらった。要は根気の問題やけん。教育って、そんなものだと思うよ」。ふと、「球界に限らず、今の社会は教える側の根気が欠けているんじゃないのか?」と疑問を投げかけるのだった。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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