ロシアの首都モスクワから北東に約300㌔に位置するイワノボ州の民家で、日露戦争(1904~05年)で日本の捕虜となったロシア兵らの写真78枚が見つかり、州都イワノボで初めて一般公開されている。撮影から100年以上を経て日の目を見た写真群。うち22枚は日本での収容所生活を撮影したとみられ、日露戦争時代のロシア捕虜の研究を続ける立命館大政策科学部の桧山真一・非常勤講師は「いずれも初めて見る写真で、捕虜の生活に余裕があったことがうかがえる貴重な資料だ」と評価している。 (共同通信=平林倫)
▽最大の収容所
日露戦争では、中国の旅順、奉天や、日本海海戦(ロシア名「対馬海戦」)などで捕虜となった約7万2千人のロシア兵が、仙台、習志野、静岡、金沢、名古屋、福知山、松山、福岡、熊本など日本全国で29カ所にあった収容所に送られた。
見つかった写真のうち22枚は国内収容所で最大だった大阪の「浜寺俘虜収容所」(現在の大阪府高石市と泉大津市の境界に所在)の敷地内や、その周辺で撮影されたとみられる。収容所の海岸部にあった松林など風景の特徴が一致することや、大阪での撮影を示す写真が複数あるためだ。
残りの56枚は、捕虜になる前のロシア兵が駐留していた旅順などで撮影された可能性が高い。
▽「一等国」入り目指して
日本での写真は、収容所内での捕虜の葬儀や、ロシア正教の礼拝堂、看護師による手当て、日本人のロシア正教司祭、収容所に出入りしていた日本の子供と捕虜が記念撮影する様子などを写している。
ロシア兵追悼のために建立され、現在も泉大津市にある「五稜の碑」の創建時の写真もあり、全体から読み取れるのは、世界の「一等国」入りを目指していた当時の日本が捕虜を厚遇した様子だ。
日本は1899年に調印したハーグ条約に基づき、捕虜の人道的な待遇を重視し、逃亡しないとの誓約書を出せば将校は制限付きで自由行動が認められ、素行のいい下級兵士も警官らの同行で外出することができた。捕虜の死亡時には葬儀も執り行われた。
写真の中でも目を引くのは、ロシア捕虜が収容所外に出て曲芸を眺めるカット。垂れ幕に見える文字「富士川廣三郎」は軽業師で、1899年に曲馬師の山本精太郎らと共に日本初のサーカス団とも言われる「日本チャリネ一座」を創設した人物として知られる。大阪で行われた富士川廣三郎の一座の公演を訪れた様子を写した一枚とみられる。
▽初めての一般公開
写真はイワノボ州に住むエブゲニー・ロジャノフさん(64)が2012年に自宅の物置を整理中に、ガラス板ネガの束を発見した。ロジャノフさんの妻の祖父の故ニコライ・グリボフ氏(1880年~1925年)が日露戦争に従軍したことから、グリボフ氏が日本から持ち帰ったと見られる。しかし撮影者や撮影目的は不明で、グリボフ氏の当時の階級も判明していない。
ガラス板ネガは、発見後に研究・保管目的で地元のイワノボ国立歴史郷土博物館に寄贈された。一般初公開となった展示「露日戦争特別展」は来年1月下旬まで続く予定。
特別展では、同博物館が所蔵し、日露戦争時代にロシアで制作された戦争プロパガンダ(宣伝)のポスターも展示されている。ポスターでは当時の敵国日本の明治天皇や日本の軍人が、西洋画風のタッチで威厳高そうに描かれるなど、日本人が見ても興味深い内容となっている。
写真が見つかったイワノボは、19世紀に「ロシアのマンチェスター」と称されるほど繊維産業の中心地だった。繊維工場の所有者でもあった富豪の収集家ドミトリー・ブルイリン氏(1852~1924年)が国内外から集めた貴重品も同博物館では所蔵されている。日露戦争の宣伝ポスターもブルイリン氏のコレクションで、約400枚に上る。
▽戦争中にも「友好」
桧山非常勤講師によると、ロシア捕虜の写真は、日本側が撮影したものは決して珍しくない。収容所があった松山や姫路、習志野、福知山では地元写真館などが撮影したものが多数残っている。それ以外の収容所があった都市でも10数枚程度が残っているという。
一方、ロシア側では、当時のフランス外交官が収容所内などで撮影した写真が、ロシア国立映画写真資料古文書館(モスクワ)で「公式写真」として保管されている。戦時中はロシア外交官が日本国外に退避したため、ロシア捕虜の人権保護は友好国フランスの在日公使館が担ったためだ。
イワノボ国立歴史郷土博物館のウラジーミル・コノレフ館長は「写真から読み取れるのは、戦時でも日本側がロシア捕虜を厚遇した人道主義だ。戦争中にも存在した日ロ友好の1ページを記録に残していきたい」と話している。大阪での写真展開催や日本人研究者との共同研究も模索していきたいとしている。