もし、あなたの大切なペットが夜間や休日などに急な病気になったらどうするだろう。掛かりつけの病院に電話しても診察時間外で誰も出ない。地域によっては24時間営業の動物病院もあるが、その数はとても少ないのでなかなか受け入れてくれない。結果、苦しむペットを前に困り果ててしまう。そんな人が多いのではないだろうか。
筆者の住むオランダではこのような心配をすることはまずない。人間と同様に動物への救急態勢が整備されているからだ。(オランダ在住ジャーナリスト、共同通信特約=稲葉かおる)
▽小鳥1羽に救急車
急病になった動物を搬送する専用の救急車や治療などを行う保護施設が全国で普及している。そんなことを知ったのはオランダに引っ越してから約1カ月が経過したころだった。
暮らししていくために必要な語学力を身につけたいと思い、筆者は語学学校に通い始めた。クラスメートの国籍はさまざまで、西洋の生活様式などを全く知らない人も少なくなかった。そのため、語学学校のカリキュラムには生活に役立つ情報を教える時間があったのだ。
筆者も含め、クラスメートの全員がびっくりした。中でも、人間に対する医療体制の整備が遅れている国からやってきた人たちは文字通り、驚愕(きょうがく)していた。
「人間が道で倒れても、救急車なんて来ない」
「私が生まれた国には、ろくな病院すらない。それなのにオランダでは、小鳥一羽を助けるために夜中でも救急車が出動するんですね!」
興奮したように彼らが口にした言葉は今も覚えている。
同時に深く感心もしていた。あるクラスメートがつぶやいた「動物の命をそこまで大切に考えているのですね」には、筆者もうなずけた。
▽「急患」で最も多いのは鳥類
搬送される動物たちは必要に応じて応急処置を施した後、治療ができる保護施設や動物病院に運び込まれる。保護施設は犬や猫、ウサギといったペットだけでなく、馬や牛などの家畜、野生動物も受け入れる。大型家畜を運ぶための大型動物の運送用トレーラーを引きながら現場に向かう救急車もある。
救急車と呼ばれているが、人間用の救急車のようにサイレンを鳴らしながら赤信号を通過することはできない。
搬送される「急患」の多くは野生動物で、中でもハトやカラス、白鳥などの鳥類が多数を占めている。また、自動車事故に遭いやすいキツネやアナグマ、ハリネズミ、そしてシカも運び込まれるという。
保護施設では獣医師や動物看護師アシスタントなどが治療に当たる。さらに、動物専門の整体師もいる。けがの手当はもちろんだが、傷が癒えた後のリハビリにも対応するためだ。
医療体制の充実ぶりがうかがわれるが、少し考えれば納得できる。動物、中でも野生動物はけがなどを治すだけでなく、自然界で生きられるようにしなければならない。それには、リハビリが重要だからだ。
実際に訪れた保護施設では、羽を痛めた鳥たちが大空に戻れるよう飛行練習をさせるほか、ギプスがとれたばかりのシカが歩く補助をしたり、海で迷った幼いアザラシに泳ぎ方や魚の捕り方を教えていた。このような手厚い看護を経て、自然に戻される。
動物専用救急車と保護施設の運営に掛かる費用は、ほぼ100%が寄付によって賄われている。寄付は一般の人に加え、オランダを代表する大企業も積極的にしている。
▽子どもたちの憧れ
背景には、動物の命を大事にするオランダの国民性がある。
言葉が話せない動物は、けがを負ったり病気になったとしても人間に訴えることができない。したがって、人間のほうから率先して救いの手を差し伸べるべきだ―。
オランダ人たちは当たり前のようにそう考えている。1992年9月には「動物の健康と福祉に関する法律の第36条」が施行された。それには「人間は動物の世話や看病、救助を提供する義務を担っている」と記されている。
オランダ人は動物を人間と同等と見なしている。それゆえ、原則として殺処分される動物はいない。さらに、ペットショップでは犬猫などの販売は行われていない。犬や猫などを飼いたい人は厳しい審査を経た後に保護施設から譲り受けることになる。
結果、動物の救命に携わる人は尊敬の対象となる。
「将来、何になりたい?」。オランダの小学生にそんな質問をすると、多くの子どもたちが「動物の救急」と答える。単に、動物が好きなだけでなく「命を助けたい」と強く希望しているからだ。
子供たちから憧れの視線を浴びながら、動物専用救急車は今日も森を目指し、海に向かい、そして街へ向かうハイウエーを疾走している。