意外に深い「金沢市民あるある」-富山を“下”に見ている、「金沢出身」と答える

土地が人柄をつくるでしょうか。特定の地域と結び付いた住人のイメージってありますよね。信ぴょう性は別として、京都の人は裏表が激しいだとか、大阪の人はヒョウ柄の服を着ているだとか。では、観光地として有名な石川県金沢の人たちには、どういった特徴があるのでしょうか。そこで今回は北陸に移住して長い筆者が、日常的な人間関係の中から学んだ金沢人の「あるある」を紹介します。新型コロナウイルス感染症の影響が収まり、北陸の旅行に出られる時期に備えて、目を通してみてください。

「どこ出身?」と聞かれたら「金沢」と答える

出身地を聞かれたら、名古屋の人が愛知ではなく「名古屋出身」と答えるように、横浜の人が神奈川ではなく「横浜出身」と答えるように、金沢の人も石川ではなく「金沢出身」と答えます。とはいえ、歴史的に見て、石川県は廃藩置県の直後、「金沢県」と命名されたくらいですから、あながち間違いではないのかもしれません。

金沢は小さなまちです。人口にして46万人程度。先ほど名前を出した名古屋が230万人くらい、横浜が372万人くらいですから、規模は比較になりません。しかし、日本海側初の国立美術館である東京国立近代美術館工芸館(国立工芸館)が2020年(令和2年)の秋、移転&オープンを控えているくらい、文化的な蓄積は名古屋、横浜を圧倒しています。

同じ北陸の両隣にある福井県福井市、富山県富山市とは異なり、第2次世界大戦末期の徹底的な空爆を免れた歴史もあります。江戸時代、幕府に次ぐ大きさを誇った加賀藩期の歴史も色濃く残っているため、歴史都市としての側面も、名古屋や横浜にはない魅力といえるかもしれません。

人口や経済規模ではいうほどでもないけれど、歴史と文化の蓄積でいえば、国内でもトップクラスに入る金沢。そのような「厚み」を持つまちだからこそ、市民は誇りを持ち、「金沢出身」と答えるのだと考えられます。

ちなみに、筆者の知り合いのカメラマンは「金沢に住んでいる」と言いたいがために、金沢市でも端の端にかろうじて引っかかるエリアに家を建てたそうです。本当は中心部に建てたかったけれど、地代が高かったので郊外を選んだ、しかし金沢市の住所は欲しかったという話ですね。それだけのブランド力が、長い時間を掛けて育ってきているみたいです。

日本海側で最大の都市だと考えている

先ほど書いた金沢市民のプライドは、文化的な厚みで勝負した時についていえば、大変な説得力を持ちます。しかし時に、そのプライドが現実の判断を見誤らせる場合もあります。

過去にテレビ番組『月曜から夜更かし』(日本テレビ系)でも取り上げられていた通り、金沢の人たちは日本海側で自分たちがNo.1の都市に暮らしていると考えています。

もちろん、年間60万人を超える訪日観光客数や、人口一人当たりの重要無形文化財保持者(人間国宝)の数が日本一といった数字は、確かに日本海側でNo.1と誇ってもいいのかもしれません。しかし、その誇りが時に行き過ぎて、政令指定都市である新潟市と人口で勝負しても、金沢が圧倒していると誤解をするなど、根拠を失う場合も少なくありません。ちなみに金沢市の人口は46万人で、新潟市の人口は81万人です。

だからといって、別に嫌みな感じで金沢の人が胸を張っているわけでもありません。地方都市の引け目をしっかりと感じながら、ある種の屈折したユーモアで自らを誇っている部分も多々あるのですが、その真意が誤解されて、時に県外出身者から疎ましく思われてしまうみたいですね。

富山を「下」に考えている

金沢市民は無意識の部分で、隣の富山県を「下」に見ている風があります。単なる印象ではなく、歴史でもその意識の表れが形として出たケースは少なくありません。

1871年(明治4年)の廃藩置県後、加賀藩は金沢県となり、間もなく全国的な府県の統廃合の流れを受けて、能登半島の辺り、現在の富山県の辺りを合併し、1876年(明治9年)に巨大な自治体(大石川県時代)を形成しました。

しかし、1883年(明治16年)には、現在の富山県が、石川県から分離独立をします。その理由は、石川に置かれた県庁が、現富山県のエリアで頻発する洪水問題を後回しにするなど、統治と予算配分に不公平な扱いを見せ続けたからだと知られています。

どうしてそのような不平等があったかといえば、江戸時代の歴史が影響しています。現在の富山県の一部を統治していた富山藩は、加賀藩の大名の分家が藩主を務めていました。要するに、本家の加賀藩の「属国」みたいな場所だったのですね。

明治時代になっても、その名残が消えません。富山エリアで選出される議員の数がもともと少なくなるように議会が設計されていたので、富山側の声が通りにくい仕組みにもなっていました。その結果、上述のような不平等などが頻発し、政治闘争の末に独立という話になりました。

この意識は、令和の現代でもどこか見え隠れしています。例えば富山で人気の飲食店を経営していた筆者の知人は、金沢で出店する時、富山の色を一切出さない戦略に出ました。その理由は、富山のお店だと金沢市民が知ると、足が向かないからなのだとか。

こうした金沢市民の意識や、石川と富山の歴史を受けて、どこか面白く感じていない富山県民も、一部にはいるようです。例えば石川県の金沢市に隣接した富山県の南砺市という自治体は、旧加賀藩の領地でした。

一帯には広大な水田が広がります。その風景からもわかるように、加賀藩統治の時代には大変な重税(年貢)に苦しめられた歴史があります。このままでは生きられないと同地の農民が陳情に出掛けたところ、ひっ捕らえられて、自宅の前でさらし首にされた歴史も残っています。

その農民の子孫は、毎年お盆になると、加賀藩の役人にさらし首にされた先祖の「処刑場」に近在の住職を呼んで、お経を唱えさせます。「先祖の恨み、忘れまじ」とまで激しい呪そではないみたいですが、忘れてはならない歴史だと、特に高齢の世代は感じているようです。

北陸のすごみは、そうした歴史や江戸期の気配が、今も日常のそこかしこに息づいている点だと思います。その土壌が、かえって金沢の人たちの郷土愛や誇りを育むきっかけにもなっているはず。

現在の経済的な尺度では測れない基準の誇りを持って生きている、それが金沢市民の「あるある」といえるかもしれまえんね。

[参考]

※ 『石川県管内図』 - 富山市郷土博物館

※ 「越中の土地を水害から守りたい」富山県の生みの親 米澤紋三郎

※ 国立工芸館(東京国立近代美術館工芸館)2020年10月開館 東京から石川・金沢へ - 石川県

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