もっと評価されてもいい! “あのねのね” はナンセンスの心ぼしだ☆ 1980年 9月25日 あのねのねのシングル「みかんの心ぼし」がリリースされた日

東京12チャンネル 日曜夜7時は「ヤンヤン歌うスタジオ」

昭和の歌番組は、現在のバラエティ番組とごちゃまぜになっているものも多かった。そんな中でも、東京12チャンネル・日曜7時から放映されていた『ヤンヤン歌うスタジオ』(以下、ヤンヤン)が大好きだった。

1977年9月の放送開始時から、ほぼ毎週観ていた。司会は “あのねのね” の清水国明と原田伸郎。この2人のことを「お笑い(当時、そんな言葉はなかったが)」の人だと思っていた。フォークデュオだなんて、知らなかった。

私はこの番組のバラエティコーナー「ねのねの何でも修行中!」を楽しみにしていた。学生や見習いに扮したアイドルたちが、色々な技や芸に挑戦するコーナー。

司会の原田が女装してスケ番や女教師のかっこうで現れ、アイドルたちにツッコミまくる。松田聖子や河合奈保子の “ぶりっこ” に対抗して、マッチやトシちゃんに迫るが、たいていひどい目に合うという “お約束” 展開。

原田が「痛ったぁーい、何すんのぉー」というだけで、なんであんなに面白かったのだろう。“あのねのね” の司会っぷりは、その後のとんねるずや、ナインティナインなどの “ツッコミ系バラエティ司会者” の原型と言ってもいいほどだと思う。

清水国明と原田伸郎が歌う「ネコ、ニャンニャンニャン」

ヤンヤンでは、“あのねのね” も歌を披露していた。1979年、「ネコ、ニャンニャンニャン」リリース時には「♪ ネコ、ニャンニャンニャン イヌ、ワンワンワン カエルもアヒルもガァガァガァ」という歌詞で一世を風靡し、私も小学校で友達と歌って笑い転げていた。

これも今思うと、一体何が面白いのだろう?

ダジャレとあたりまえの世界。少しSFチックで曲調が当時最先端のテクノ感満載だったので、キラキラ感があり、やけに耳触りがよかった。

原田が白目をむくような顔芸入りで歌い、今思えば少しノエル・ギャラガーみたいな(違うか)クニアキが横で淡々と支えているから、総合パフォーマンスとして面白かったのかもしれない。

掟破りのアバンギャルドさ、ニューウェーブ風味の「みかんの心ぼし」

そして1980年、“あのねのね” は、スペーシーで未来的な衣装に身を包み、後の一風堂も真っ青のニューウェーブ、ビジュアル系メイクで登場。バックバンド(助っ人みたいな人たち)を引き連れて、シングル「みかんの心ぼし」を披露した。

当時 “あのねのね” は “劇団あのねのね” を立ち上げ、ミュージカル『みかんの心星は青春だ!』というのをやっていたらしい。その主題歌がこの歌だったとか。しかし、そんな背景も脈絡も知らなかったので、掟破りのアバンギャルドさに驚き過ぎて、理解不能だった。

 原宿の竹の子族に 対抗して
 川崎の松っ竹族は トルコで
 泡踊りを 踊っていた

 養老の滝から流れてきた
 吉野家の牛丼を
 土産にもらった
 おとなげない子供は
 やったねパパ 明日は倒産だと
 大人の話に首をつっこんで
 首がぬけなくなってしまった

ポエトリーリーディングのように、とうとうと歌詞を読み上げる原田と、そのまわりで秘密儀式のように無表情に立っているメンバー…。私には歌詞の意味がまったくわからなかったが、父親は爆笑していた。ただ最後の、

 ありのままに生きようとした蟻は
 ありのままに生きようとした蟻は
(… 以下、12回ほど、マーク・スチュワートばりの狂気の雄叫びリピート)
 …… ありのままだった

私は、この「ありのままだった」までのセリフの “タメ” と、最後のアホっぽい “解放” が好きでワクワクした。大袈裟に、本気に、ナンセンスを歌い、演じる。“意味” などを捨てた彼方に明るく輝いている星、それこそが “あのねのね” の目指した「みかんの心ぼし」なのかもしれない。

“あのねのね” は、もっと評価されてもいい!

このレコードのライナーにも書いてある。「ハラツストラ(ツァラトゥストラをもじった原田のことらしい)の指さすかなたにみかんの心星を見た者たちは、その夜、救われた……」

救われるかどうかはわからない。しかし、私は彼らが日本の音楽界で、お笑い界で、バラエティ界で、もっと評価されてもいいと思っている。

とはいうものの、シングルレコードをすべてコンプリートしているほどの “あのねのね” マニアであることを人に言うのは、少し恥ずかしい。

※2017年4月14日、2018年9月25日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 上村彰子

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