なぜ秋本真吾は一流の「走りのプロ」なのか? 夢と目標の違いに気付いた“地獄の現役時代”

元陸上ハードル選手で、現在はスプリントコーチとして日本を代表するトップアスリートへ走り方の指導を行うとともに、年間1万人以上の全国の子どもたちへ「かけっこ教室」を開くなど、「走り」のスペシャリストとして幅広い層から支持されている秋本真吾さん。一方で、彼の競技人生というのは決して順風満帆といえるものではなかったと言う。自らを「遅咲きタイプ」と語る秋本さんが、どのようにして壮絶な地獄のような日々を乗り越え、恩人たちの言葉によってどのような気づきを得て今に至るのか。これまでのキャリアの原点となる日々のことを明かしてくれた。

(インタビュー=岩本義弘[『REAL SPORTS』編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=@moto_graphys)

五輪日本代表が見えてきた、学生時代8年間の400mハードル生活

――秋本さんは陸上選手として活躍していた現役時代、自分自身をどんな選手だったと思いますか?

秋本:僕、もともと競技力は高くなかったんですよね。競技力を高めるためにはどうやったら効率よく上に行けるんだろう、ということをすごく考えて行動に移していったタイプだったのかなと。なので、天才でもなければ、何でもすぐできるというタイプでもなく、コツコツ積み重ねてきた遅咲きタイプだと自分では思っています。

――高校時代にはすでにトップレベルの競技力だったのですか?

秋本:高校時代は全然です。福島県にある双葉高校に所属していてインターハイ(全国高等学校総合体育大会)には行ったんですけど、11ブロックの各大会で6位までがインターハイに行けるんですが、東北地方ってやっぱり近畿や関東と比べると当時はレベルが低くて、さらにその中のギリギリ6位で。結局インターハイに行っても予選落ちで、全国のタイムで見ても120番台くらい。高校ランキングも、レベルとしては全然低い状態で大学に行ったという感じでした。

――秋本さんは200mハードルの元アジア最高記録保持者ですが、当時も200 mハードルをやっていたのですか?

秋本:200 mハードルは、オリンピックや世界陸上の種目にない特殊種目、いわゆるサブ種目といわれていて。オリンピック種目は110 mと400 mハードルの2種目なので僕は400mハードルでずっとオリンピックや世界陸上を目指してきました。それまでは全く違う種目をやっていたので、400 mハードルを本格的に始めたのも高校2年生ぐらいからだったんですけど。

――その前は何をやっていたんですか?

秋本:それまでは棒高跳びをやっていたんですけど、高校の恩師が400mハードルのほうがいいんじゃないかというふうに可能性を見つけてくれて、「やってみろ」と言われたのがきっかけでした。棒高跳びは、薄々もうこれ以上伸びないなというのを感じていたんですよね。それとは真逆に、走れば走るだけタイムもどんどん伸びていくという面白さを感じて、大学ではもう一回ハードルで陸上をちゃんとやりたいなという想いがすごくあったんです。高校は部員数も少なかったですし、練習でもいつも一人で走っていたので、大学に行って速い人たちと一緒にやって、自分の行けるところまで行ってみたいなと思い、大学でも続けました。

――大学で実際に記録が伸びていったのは、自分自身の力はもちろんですけど、当時のコーチや環境といった要素も大きく影響しましたか?

秋本:環境はやっぱりすごく大きくて。僕が行った国際武道大学では、大学の中に400 mトラックがあって、試合もできて、いつでもハードルが跳べるという環境だったんですよ。高校の時は進学校だったので部活の練習をする場所もほとんどなくて、土のグラウンドで、ハードルも直線ぐらいしか並べられないという環境から、一気にすごく恵まれている環境に行ったので。個人的にはもう、すごくワクワクしていて、早くここで練習したいという気持ちもあって。

あとはやっぱり、あまり強い大学じゃなかったので、ずば抜けて速い人たちがいなかったんです。その中で、僕よりちょっと速い人を目標にしていくというのを一歩一歩クリアしていった感じで。もしレベルの高い大学に行ったら、インカレ(日本学生陸上競技対校選手権大会)を経験するまでにもすごい時間がかかってあっという間に4年目が終わってしまうところ、2年目ぐらいからインカレに出られるレベルまで上がっていったので、コツコツ経験できたというのはすごく大きかったのかなと思います。

――では、大学に入ってからみるみる伸びたのですか?

秋本:高校2年生から400 mハードルを始めて大学院まで8年間ずっと自己ベストを更新し続けていったので、数字だけ見ると大学生活はすごく順調でしたね。僕、同学年の中で一番足が遅かったんですけど、同学年のハードルをやっている連中に勝って、次は先輩を目指して先輩に勝って、今度は関東の速い同級生を目標にしてそれも勝って、みたいな感じでどんどん目指すラインが上がっていきました。大学4年経ったくらいの時に日本ランクトップ10ぐらいに入ったんですけど、その時に初めて日本代表を意識し始めたというか。見えなかった景色が見えるようになってくると目標設定もどんどん高くなっていくので、当時は「もしかしたら、こんな俺でも行けるんじゃないか?」みたいな感覚になっていましたね。

――五輪強化指定選手に選ばれたのは、いつ頃ですか?

秋本:2006年の大学院2年目で日本ランク5位になった時に選ばれました。大学院2年間が終わって社会人に行くぞという頃には、日本代表の自分の姿が完全に見えていましたね。

――すごいですね。なかなかないレベルの飛躍ですよね。

秋本:でも、ここからが地獄だったんですけど……。

「バイト3つ掛け持ち」「パチンコ通い」地獄の実業団生活で得た気づき

――それはどんな地獄が待ち受けていたんですか……?

秋本:まず、就職先が決まらなかったんですよね。日本ランク5位だし、実業団も決まるんだろうと思っていたんですけど、そう簡単にはいかなくて。日本代表としてオリンピックや世界陸上で走っていましたというぐらいの人じゃないと(企業にも)呼ばれないんです。

まず標準記録を切らないと世界陸上もオリンピックも出られず、さらに3位以内に入らないといけないんですけど、僕は当時、全然満たしていない5位だったので、やっぱり企業からすると「誰?」みたいな感じだったんですよね。自分から売り込みにも行きましたし、就職活動もしたんですけど、結局だめで。

その時に、同じ種目というのもあり、師匠のように尊敬していた為末大さんに実業団が決まらないことを相談したら、「じゃ、俺が何とかしてやる」と言ってくれて。為末さんは当時、アジアパートナーシップファンドという、アジアで一番大きいファンド会社に所属していたんですけど、そこのトラッククラブを作ってくれて所属させてくれると。ただ、予算の関係で固定給は出せないから、遠征費用やメンテナンスの治療費以外は自分で何とかしろというふうに言われて。そこからがめちゃくちゃ大変で。

――それでどうしたんですか?

秋本:結局バイトを掛け持ってやりました。当時、千葉県の勝浦市という海側のところに住んでいたんですけど、漁港の魚の氷詰めのバイトを紹介されて、時給1000円だったので朝4時から9時までそれをやって。その後、大学のトレーニング施設で事務の受付バイトを時給710円くらいで午後から夕方までやって、それから練習して、その後はホテルの清掃バイト……という感じで3つ掛け持ちでやっていたんですけど。何か、その時の自分がイメージしていたのと全く真逆の世界だったんですよね。

その時、為末さんに日本代表合宿の時に部屋に呼ばれて「この先競技を続ける意味ってわかる?」って言われて、「3位以内に入らなかったら、続ける意味ないからね」と言われたんですよ。「自分の頑張りを表現するような学生時代と違って、社会人になってもやるということは、そういうことだから」と言われた時に、めちゃくちゃ動揺したんです。日本代表になりたいと思っている自分がいるくせに、日本トップの人から面と向かってその現実を言われた時に、「この環境で本当にいけるのかな、俺」って思っちゃったんですよ。そこでかなり心が揺れたのを、今でもはっきり覚えているんですけど。

――その後は?

秋本:そこからはやっぱりもろに競技結果に反映しちゃって、結局その年は1秒ぐらいタイムを落として、日本選手権(日本陸上競技選手権大会)も予選落ちという状態でワンシーズン終わってしまって。次のシーズンになっても、もう日本選手権の標準記録すらも出ないような状況で。実業団でやっていて日本選手権の標準記録すら出せないというのは相当ヤバいんですけど。もう無理だなと思って為末さんに電話で報告したら、「日本選手権にも出られないような選手、うちのクラブに置いておけない」と言われて。「海外でも何でもいいから、タイム切れるところにチャレンジしてきなよ」みたいなことを言われたんですけど、もう僕のメンタルはボロボロで。行動にも移せないような状態で、結果、その年もだめでした。

――当時は何歳ですか?

秋本:26です。

――そんなきつい状況の中でも、なぜやめなかったんですか?

秋本:当時は北京五輪の年で、為末さんも競技結果としてはケガなどもあって北京も厳しいって時だったんですけど、最後の日本選手権で勝って北京に行ったんですよ。その姿を見た時に、やっぱり自分ももう一回このステージに立ちたいし、頑張りたいなと思って、なぜ今結果が出ないんだろうと考えた時に「環境」だと思ったんです。やっぱり、バイトを掛け持ちしてこんな自分でいいのかなと思っている時点で、もうだめじゃんと思ったんですよね。

――言い訳がある時点でだめだということですね。

秋本:はい。実はその時パチンコにハマって。自分は吸わないですけど、パチンコ屋でたばこくさくなって家にいる自分がもう本当に「終わっているな、俺」って思ったんですよ。ストレスで髪の毛が抜けたりもして、いろんな意味でこのままじゃ本当にヤバいという状態だったんです。だからまずは環境を変えようと。ちゃんと働きながらもお金をもらって競技ができる環境を探そうと思って片っ端からいろんな人に話をしに行ったら、大学時代の親友が千葉県の旭市という港町で釣り具のルアーメーカー、アムズデザインという会社のキッズ陸上チーム「チームアイマ」の監督をやっていたんです。「社員にも陸上部がいるから、社長に聞いてあげようか」と言ってくれて。

社長が会ってくれることになり直接会いに行ったら、社長さんに「君の夢、何なの?」と言われて、「オリンピックに出て日本代表になりたいです」と話したら、「うちでちゃんと働けるかな?」と言われて。「うちはルアーメーカーの会社だから、そういう勉強しながら9時から15時まで働ける?」と。それ以外の時間なら練習していいよと言われたので、もう即答で「イエス」と言って、次の日に旭市に引っ越して、翌日ぐらいから働き始めました。

恥ずかしながら26歳で初めて社会に出て、20人ぐらいの会社だったんですけど、釣り具がどうやってデザインされて、流通されて、売られてという、ものづくりの会社の仕組みを学んで、9時から15時まで働いて、そこで初めて月24万円の給料をもらえるようになったんです。それが僕からすると「やっとここに来れた」みたいな感じだったので、一歩自立できた瞬間だったんですよね。

“恩人”たちが気づかさせてくれた「目的」と「手段」、「夢」と「目標」の違い

――為末さんにチームを移籍することを報告した時は、どんな反応でしたか?

秋本:絶対怒られると思ったんですけど、為末さんは「あんまり(協力)できなくてごめんな」と。「チームが変わっても一緒に練習合宿とかやろうよ」と言ってくれて、一生かけても恩返ししなきゃいけない人だなと思ったぐらい、本当に優しい言葉をかけてくれました。

その時に、為末さんにもいろいろ競技のことを相談したんですけど、やっぱり「走り方が崩れているから、あまりハードルの試合には出ないで100 mとか200 mで走りを作っていったほうがいいんじゃないの?」と言われて。為末さんの言うとおりにトレーニングしていったら、本当にどんどん速くなっていって、100 mも日本選手権に出れるぐらいのスピードにまでなったんですけど、ふたを開けてみたら400mハードルが全く速くなっていなかったんですよ。

これってめちゃくちゃ問題で、目的と手段が完全に入れ替わっているというか、400 mハードルを速くするためなのに、いつからか100mを速くする自分に酔っているみたいな感じになっていたことに気付かなくて。これはヤバいぞという時に、会社の社長に呼び出されて。何だろうと思ったら、面と向かって「お前、いつまで競技続けるの?」って言われたんです。

――目的と手段が入れ替わってしまうのは、よくあるパターンですよね。

秋本:かなりの真顔で「本当にオリンピック行けるの?」「ちゃんと練習してる?」って言われて、イラッときて「いや、してますよ」みたいに返したんですが、「じゃあ、何で結果出ないの?」と言われて何も言えなくて……。いわゆる“クビ宣告”をされたんですよね。「ちゃんと自分で今後のプランを考えてきなさい」と言われて、その日はもう練習できなくて。家に帰ってずっと考えながら、辞書で「夢」と「目標」それぞれ調べてみたんです。「夢=願望、願い事」で、「目標=一定期間内に何かを達成すること」というふうに、書いてあることが全く違ったんです。夢と目標の違いを言える人ってなかなか少ないと思うのですが、要は「期限があるか、ないか」がその違いであることに初めて気付いた時に頭をなぐられたような衝撃が走って。

毎日コツコツ頑張れば、その先にオリンピックがあるみたいな感覚でやっていた自分が情けなくなって、早速紙4、5枚の決意表明書というのを作りました。今でも残っているんですけど。年度ごとに自分が今後どういう思いを持ってやっていくかという目標を全部記したんです。2008年のことだったんですけど、2012年にロンドン五輪があったので、ここを最後に、出れても出れなくてもここで引退しますという。その逆算のプランを全部具体的にまとめて、次の日に社長に持っていきました。

すると社長は「ここまで本気なら、ロンドンまでちゃんとサポートするから頑張ってね」と言ってくれて、そこからは練習の仕方がまるで変わったというか。いつも1人でやっていたのを、当時の強豪だった順天堂大学の学生たちと一緒に練習するために、仕事を終わらせた後1時間かけて佐倉市というところまで行って、9時、10時ぐらいまで練習して1時間かけてまた帰るという生活を毎日繰り返したんです。

――やっぱり1人で練習していたら伸び悩みますよね。

秋本:そうなんですよ。その次の年に目標設定もクリアして、200 mハードルの当時2010年のアジア最高記録も出しました。あの時の社長の言葉による気付きは、僕にとってすごく大きな影響をもたらして、競技をやめてからのキャリアにも生きているなと感じています。

――まさにその社長の言葉によって、これまで夢として漠然としていたものが目標として具体的になったことで、成功体験につながったのですね。

秋本:そうですね。ただ、その翌年に東日本大震災があって地元が被災したのと、初めてアキレス腱を痛めたタイミングが重なって精神的にも肉体的にもきつい状態で、結局ロンドン五輪までに治らず予選落ちして、きっぱりそこで引退したんですよ。失敗に終わってしまいましたけど、その理由は後で分析するとわかるわけなんですよね。そういうのが今の仕事に生きているので、結果として失敗ではなくなるんです。僕はオリンピック出場どころか日本代表にすらなれなかったんですけど、そこまでの過程を今のコーチングという領域にどう生かすかということをすごく考えています。

<了>

PROFILE
秋本真吾(あきもと・しんご)
1982年生まれ、福島県大熊町出身。元陸上競技選手、現在はスプリントコーチ。小学校時代から陸上に親しみ、双葉高校1年時に400mハードルに出会う。国際武道大学に入学、同校大学院1、2年時に日本選手権ファイナリストに選出。2012年まで400mハードルの陸上選手として活躍し、オリンピック強化指定選手にも選出され、当時の200mハードルアジア最高記録、日本最高記録、学生最高記録を保持。2013年からはスプリントコーチとしてプロ野球球団、サッカー日本代表選手、Jリーグクラブ所属選手、なでしこジャパン選手、アメリカンフットボール、ラグビーなど500名以上のプロスポーツ選手に走り方の指導を展開。年間1万人以上の日本全国の小中学校にてかけっこ教室を開催、これまで約7万人の子供たちへ走り方を指導。また、地元である福島県大熊町のために被災地支援団体「ARIGATO OKUMA」を設立し、大熊町の子どもたちへのスポーツ支援、キャリア支援を行っている。2020年4月にオンラインサロン『』をスタート。

[指導歴]
・チーム
2016-阪神タイガース/2010-2012 オリックス・バファローズ/2018 大分トリニータ/2012 2018 INAC神戸レオネッサ/2016 日テレ・東京ヴェルディベレーザ/2017 浦和レッズレディース/2019 カンボジア代表(サッカー)

・アスリート
内川聖一(福岡ソフトバンクホークス)/荻野貴司(千葉ロッテマリーンズ) /槙野智章(浦和レッズ)/宇賀神友弥(浦和レッズ)/橋岡大輝(浦和レッズ)/大島僚太(川崎フロンターレ)/谷口彰吾(川崎フロンターレ)
/長谷川竜也(川崎フロンターレ)/都倉賢(セレッソ大阪)/李忠成(京都サンガF.C.)
小野瀬康介(ガンバ大阪)/稲本潤一(SC相模原)/大津祐樹(横浜F.マリノス)/オナイウ阿道(横浜F.マリノス)/石井 講祐(サンロッカーズ渋谷)/中村 輝晃クラーク(富士通フロンティアーズ)/神野大地(セルソース)

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