「スペイン風邪」の起源は米国だった、第一次世界大戦下で起きたことは?

古代から世界的なパンデミックはいつも、旅人によってもたらされてきました。シルクロードを行きかう隊商がペストを運び、発達した鉄道網によってコレラが拡散していったのです。そしてスペイン風邪を世界に広めたのは、軍隊でした。戦いながら移動を続ける彼らもまた、旅人だったのです。


「旅の黄金期」が一転して、パンデミックに

19世紀末から20世紀初頭にかけて、人類の旅は大きく飛躍しました。鉄道網は欧米やアジア、アフリカにまで広がり、1883年にはかの「オリエント急行」がパリとコンスタンティノープル(現イスタンブール)を結びます。海では大型の豪華客船が次々と就航。またノルウェーの探検家アムンセンが1911年に南極点に到達するなど、世界の隅々まで人類は旅するようになりました。

そんな時代に、第一次世界大戦が始まりました。モータリゼーションの発達は戦争をより激しく凄惨なものにしていきましたが、それに拍車をかける出来事がアメリカで起こります。1918年3月のことでした。

ヨーロッパ戦線に向かうための兵士たちを訓練していた陸軍基地、キャンプ・ファンストンで、体調不良を訴える人々が相次いだのです。しかし発熱や頭痛といった一般的な風邪の症状だったためあまり重要視されず、そのうちにほかの基地にも飛び火。多くの患者や死者も出てくるのですが、米軍は大西洋を渡って続々とヨーロッパ戦線に投入されていきます。

謎の風邪はアメリカからの軍船に「同乗」し、フランスに上陸。そして軍の拠点から市中へと感染が広がると、やがて重病者が相次ぎ、死者が爆発的に増えていったのです。集団生活をしながら移動していく軍隊はさながら旅するクラスターと化し、戦線とともに病気をヨーロッパ各地に拡散させていきました。

軍隊のグローバル化と戦時体制が感染を拡大させた

1918年5月にはスペインやイギリスなど西ヨーロッパに感染者が広がり、6月にはボンベイからインド全土へ。さらに10月には遠く南米のペルーやニュージーランドにまで感染は拡大。鉄道や船の緊密化した交通インフラに乗って、一気に感染地域が増えていくこのスピードは、現在のコロナ・パンデミックと同様です。グローバル社会を利用して、あっという間に世界中に広がった史上初の病でした。

戦争中だったために各国は情報を隠し、国を越えた対策が行われることもなく、それがパンデミックをより加速させていきます。そんな中、中立国だったスペインでは盛んに感染状況が報じられました。スペイン発の情報ばかりなので、まるでスペインが「震源地」であるかのように誤解されたことから、やがてこの病は「スペイン風邪」と呼ばれるようになります。

感染を広げた一因は第一次世界大戦で一般化した「軍隊のグローバル化」にもあります。イギリス軍の中にはインド人などの植民地兵がたくさんいました。フランスはアフリカなどの植民地から60万人の兵士を動員したといわれます。彼らもスペイン風邪に罹患し、治療や休暇のために母国へと帰り、そこで感染源となっていきます。

コロナ禍と同じ現象が100年前にも

スペイン風邪は日本にも早々に上陸。その時期は諸説ありますが、1918年5月に、横須賀に帰港した軍艦250人の乗員が感染していたことが発端だともいわれます。

ほとんど無人となってしまった成田空港。賑わいを取り戻すのはいつの日か

当時の内務省の資料『流行性感冒』には、
「船舶の往来、通商の繁劇を加えたる本次の流行に於いて、我が国が侵襲を受くるに至りしは到底免れ得ざる所なりしなり」
という一節があり、グローバル化が進んだ社会ではもはや、パンデミックは避けられないものだという認識が伺えます。その予測の通り、日本では当時の人口5,500万人の半数近い2,380万人が感染し、39万人が死亡。

そして世界では5億人が感染し、死者は5,000万人とも1億人ともいわれます。そこで起きたことは、現代のコロナ禍と同じです。

当時のエンターテインメントの最高峰だったサーカスや劇場、映画館の閉鎖。教会での礼拝の中止。不要不急の集会の禁止。アメリカでは営業が許可された劇場でも拍手喝采の自粛が求められ、咳をした人が退場処分となり、サンフランシスコではマスクの着用が法律で義務づけられ、アラスカでは自治体ごとに検問を設けてロックダウンに入りました。医師や看護師がヨーロッパ戦線に駆り出されていたため医療従事者が足りず、各地で医療崩壊が起き、社会は大きく揺らぎました。

ひとつ現代と異なる点は、入国制限を行った国はほとんどなかったということです。オーストラリアだけが国境を封鎖して、国際船の往来を制限。そのため被害は比較的少なかったといわれますが、それでも1万人以上が犠牲になりました。

それでも人は旅を取り戻す

古代から、軍隊はさまざまな情報や物資や文化を運ぶ旅人でもありました。古代マケドニアのアレキサンドロス大王遠征軍は、ギリシアの文化を東へと伝え、進軍する先々の文化と混じり合い、独自のヘレニズム様式を生み出しています。ナポレオン率いるフランス軍はエジプト侵攻の際にロゼッタ・ストーンを発見し、これが古代エジプトの象形文字ヒエログリフを解読する突破口になりました。

そしてモンゴル軍がペストを運んだように、第一次大戦下の米軍はスペイン風邪を媒介してしまったのです。感染症が人の群れと移動を好む存在である以上、「旅人の最大単位」である軍隊に寄生するのはごく自然なことであるのかもしれません。

スペイン風邪はおよそ2年後の1920年に収束。すると世界は、以前より力強くグローバリゼーションを推し進めていきます。「空の時代」が始まったのです。1903年にライト兄弟が世界で初めて有人動力飛行に成功してから飛行技術は長足の進歩を遂げ、1919年にはロンドンとパリを結ぶ国際航路が開設。同じく1919年には世界最古の航空会社KLMオランダ航空がロンドンとアムステルダムを結びました。ここから一気に航空網が発達していきます。スペイン風邪パンデミックの前よりも、世界はさらに緊密化し、旅は一般化していったのです。

コロナ禍の出口はまだ見えません。しかし人類は幾度もの、まるで大災害のようなパンデミックを乗り越えてきました。旅行すること、移動することそのものが危険視されてもきましたが、収束した後はもっと遠く、もっと深く、人は旅することを求め、また実現してきています。

きっとまた旅できる日が来る。そのときは旅行文化はさらに発展するはず

知らないところへ行きたい、見てみたいという好奇心は、人類の進化の源であり続けました。それは感染症では止められない、人のDNAに刻まれた本能のようなものでもあると思うのです。であるなら、人類は再び、それも近い将来、きっと旅を取り戻すはずです。

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