十八銀行史 県都を支えた堅実さ 【連載】十八・親和 合併の行方 新銀行発足編<1>

開業当時の第十八国立銀行本店(十八銀行史掲載)

 十八銀行と親和銀行-。ともに140年以上の歴史を刻み、県を二分してしのぎを削ったライバル同士が10月1日、ついに合併する。この節目に改めてルーツや再編の経緯をたどり、新型コロナウイルス禍という新たな課題に対応する今を追った。
 「銀行トシテタダ確実堅固ノミヲ意トシ…」。西南戦争が起きた1877(明治10)年、第一国立銀行頭取の渋沢栄一は、第十八国立銀行の開業直前に上京した創業メンバーの1人で実業家の松田源五郎に書簡を手渡した。

渋沢栄一が第十八国立銀行に寄せた書簡(十八銀行所蔵)

 生涯500の会社を育てた渋沢は「日本の資本主義の父」と称され、新1万円札の肖像画になる傑物。松田は絶えず彼に相談し、開業手続きや経営の心得を学んだ。後に十八銀行の2代目頭取となった松田は、初代長崎商工会議所会頭や衆院議員も務め、鉄道や水道の建設など長崎の近代化に貢献した。
 東浜町にあった本店を出島に近い築町の現在地に移し、97(明治30)年に株式会社へ転換した。十八銀行は日露戦争後、海外営業網を拡充。一時は朝鮮半島に9店舗を展開し、日本の銀行では初めてロシア極東ウラジオストクに進出した。戦争や恐慌で業績は浮沈を繰り返した。原爆投下で関係者43人が犠牲となり、爆心地付近の2支店では、役員らが行員の遺体や遺骨を捜し収容した。
 高度成長期の県都長崎は炭鉱や水産に代わり造船業が躍進。同行も規模を拡大していく。1969(昭和44)年、現在の地上10階建て本店が落成した。82(昭和57)年の長崎大水害では十数店舗が浸水。泥の海で孤立した東長崎支店は、徹夜の復旧作業で3日後には営業を再開した。同行は定期預金の期限前払いに応じるなどして被災者を支えた。

十八銀行の旧本店(十八銀行史掲載)

 トップは56(昭和31)年、7代目に清島省三が就いて以降、宮脇雅俊が創立以来初の生え抜き頭取となるまでの半世紀、大蔵(現財務)省出身者が4代続いた。元役員がこの間を振り返る。「融資の審査がなかなか通らず、時に『固い』とやゆされた。そんな堅実路線が浸透し、無理をしなかったからこそ大きな経営危機には至らなかった」
 バブル崩壊後、不良債権を抱えた金融機関の破綻(はたん)が相次ぎ、2000(平成12)年から再編が本格化した。同行は同年度、上場以来初の赤字に転落。それでも財務健全性を保ち、県外グループに合流していく県内他行を横目に単独路線を掲げ続けた。しかし、人口減少で市場縮小に歯止めがかからず、デフレ脱却に向けた日銀のマイナス金利政策もあって収益力が低下。やがて他行との提携、統合の道を模索していくことになる。
=敬称略

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