パープルと呼ばれる人――「中道派」とは誰を指すか?

 保守とリベラル派の対立が激化し、「分断された」と言われるアメリカだが、実際には中道派も多く存在する。二つの異なる思想の間で様々な思いを抱く中道派の視点で、グッドイヤー・ジュンコが「アメリカ」を語る。保守でもリベラルでもない立場をとるアメリカ人の考えは、なかなか表に出てこない。中道派とは、どんな人たちなのだろう?

リベラル思考が極端な場所から引っ越して

 私にとって、トランプ政権誕生は悪夢の始まりであった。アジア系アメリカ人で移民、女性、起業家……。私の存在自体が、どれをとってもトランプ大統領を憎むべきグループのカテゴリーにハマってしまったためである。

 特に悲劇的だったのは、大統領選当時に住んでいた家の近所に、有名なリベラル活動家がいたことだ。それまでは、ほとんど話すらしたことがなかったのに、トランプが当選するや否や、彼女は毎日のように私の元を訪れ、ありとあらゆる集会に参加するよう言い続けた。のらりくらりと参加を断っているうちに、説教されるようになってしまい、日々彼女と顔を合わせるのが、とにかく苦痛だった。

 幸い様々な理由で私達一家は引っ越しを決めていたので、そんな攻撃からはすぐに開放されたが、怒り続けている彼女の顔は一生忘れられそうにない。

同じ悩みを抱えていたゲイのカップル

 周囲には、私と同じような問題を抱える人たちもいた。特に印象的だったのは、長女のクラスメートの父親たちと自分の悩みが同じだったことだ。この「父親たち」とは、ゲイのカップルだ。学校の送り迎えや行事を通じて、とても仲良くしていた人たちで、ゲイであること以外は普通の親と何も変わらず、子供を愛する素晴らしい父親だった。彼らもまた、私と同じような時期にカナダへ引っ越してしまったが、引っ越した理由は住んでいた地域のリベラル思考に対して違和感が生まれたことが大きな要因だったという。

 彼らの場合はゲイであることを理由に、あらゆる「集会」に勧誘され続けていた。「ゲイなのだから、トランプは敵だ」、「同性愛やトランスジェンダーたちの権利を脅かされないために、戦おう」―――そんな誘いが毎日続いたと言う。しかし、彼らは「性的マイノリティのすべてが、マスメディアなどで取り上げられるような主張を持っているとは限らない」と口にしていた。特に子供を対象にしたトランスジェンダー教育については、彼らはリベラル優位の教育方針に大きな疑問さえ持っていた。

ゲイが超リベラルとは限らない

 彼らが引っ越さなければならないほどに苦痛になったのは、選挙後に激化していった「ジェンダー教育論争」からだった。

 私たちが暮らしていた地域は、シアトル近郊の中でも特にリベラル派が強いベインブリッジ島という場所だったのだが、教育指導の方針が変わり、日本で言うところの小学校1年生から「性の多様性は守られるべきであり、性は誰もが自由に選べる」ということを教えることが決まったのである。これが決まったのは選挙前だが、当時はこの決定を疑問視する声が多く、「中学校の高学年や高校生向けには大切かもしれないが、小学校低学年には不要なのではないか」という意見が多数を占めていた。

 ところが、トランプ大統領が「マイノリティの敵」とイコールのように日々報道されはじめると、事態は変わった。誰もが小学校低学年に「性別は選べる」ということを教えることについて、疑問を持たなくなったのである。しかも、PTAはゲイのカップル二人を担ぎ上げて、「マイノリティ教育を推進するアイコン」のように持ち上げだしたのだ。

 ところが、そのカップルだけは変わらなかった。彼らは選挙後も、「マイノリティ教育は段階を踏むべきであり、小学校低学年には早すぎる」という意見を崩すことはなかった。彼らは言った。「自分たちはゲイである前に子供の親だ。小学1年生が性別は選べるということの真意を理解するとは思えない」と。そして、「すべてのゲイがリベラル派だというのは、大きな誤解だ」とも。

アメリカにおける中道の定義とは?

 アメリカは極端な国である。沿岸都市部のリベラル派が非常に強い地域に住んでいれば、保守派の考えは全く理解できないという人が圧倒的多数だろう。また同様に、南部のバイブルベルトと呼ばれる、キリスト教信仰が特に強い保守派の地域に住めば、リベラルにはほとんど出会わないと言ってもよいかもしれない。

 しかし、この国は広い。なかには「中道」と呼ばれるような人もいるのだ。中道といっても、保守派の考え、リベラル派の考えを完全に半々に持つという意味ではない。完全に「ど真ん中」ということなど、あり得ないからだ。それを踏まえて定義するなら、中道とは「ひとつの思想傾向には偏らず、保守、リベラルの様々な部分を選択し、自分の見解にあてはまることであれば柔軟に受け入れる人」と、なるだろうか。

 アメリカにおける「多様性」が、この国の真の強さとするのであれば、私たちに必要なのは保守対リベラルという戦いではなく、異なるものに対する寛容性なのではないかと強く思う。今のところ、表立って中道的意見を口にする人は少ないが、自ら中道と思える人たちが、少しずつ声を上げていくことは大事なことなのかもしれないと感じている。

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