壱岐・原の辻遺跡「船着き場跡は陸続き」 長崎県埋文センター白石氏 東アジア国際シンポジウムで仮説を報告

パネル討論に臨む(右から)工楽館長、小山田教授、白石氏=長崎市立山1丁目、長崎歴史文化博物館

 東アジア地域との交流の歴史に焦点を当てた考古学研究を進める長崎県埋蔵文化財センター主催「東アジア国際シンポジウム」が4日、長崎市内であった。同センター主任文化財保護主事の白石渓冴(けいご)氏は、壱岐市の国指定特別史跡「原の辻(はるのつじ)遺跡」の船着き場跡について、形状は想定されている島状ではなく陸続きであり、また造られた時期は須玖Ⅰ式「古段階」(紀元前2世紀前半ごろ)と考えられてきたが、同「新段階」以降(紀元前2世紀後半以降)とする仮説を報告した。
 同遺跡は、魏志倭人伝に記された一支国の王都で、さまざまな土器や中国・朝鮮半島系の遺物が多く出土している。船着き場跡は中国を除く東アジア最古。内海湾に流れ込む本流の幡鉾川から枝分かれした広いよどみの中に島状にあったとみられている。
 白石氏は各種分析から、船着き場跡の南側一帯は水没しない標高より常に高く、陸続きだったと推定。また造られた時期は、出土した土器の甕(かめ)の口縁部や底の形状から再検討した。
 シンポジウムは「土を盛り、石を築く-土木・建築技術にみる東アジア交流」がテーマ。工楽善通大阪府立狭山池博物館長が「土木技術の源流を訪ねて」、小山田宏一奈良大文学部教授は「東アジアにおける原の辻遺跡船着場突堤の土木技術」と題し、講演した。
 3人のパネル討論もあり、白石氏は「この船着き場が埋もれたのは弥生時代後期と考えられるが、原の辻遺跡はその後もう一度発展期を迎える。そのときの船着き場がどこに行ったのかは謎」と語った。
 会場では、同遺跡発掘時の関係者から「さらに出土例を増やし分析の精度を高めてほしい」などと期待の声も聞かれた。

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