エルトン・ジョン、ジョン・レノンとの友情について息子のショーンに語る

Photo: Steve Morley/Redferns

エルトン・ジョンがジョン・レノンとの非常に親密な友情と、ジョン・レノンがエルトンの人生に与えた影響について詳しく語った。

ジョン・レノンの生誕80周年に向けて、英時間10月3日と4日にBBC Radio 2で放送されたの2部構成の特番『John Lennon At 80』の第1部では、エルトン・ジョンがジョン・レノンの息子で、エルトンが名付け親でもあるショーン・オノ・レノンと対談した。同番組では、ショーンが彼の母親違いの兄であるジュリアン・レノン、そしてポール・マッカートニーとの対談もフィーチャーしている。

ショーン・レノンは番組の冒頭でこう語った。

「エルトンと僕の父は1970年代に親しくなりました。彼らがしでかした悪ふざけのいくつかはしっかりと記録されていますし、幸運にも、2人の音楽的コラボレーションは録音として残っています。一方で、父と出会う数年前のエルトンは、他の多くの人々と同じようにザ・ビートルズのいち大ファンでした」

そうしてエルトン・ジョンは、かなり早い段階からザ・ビートルズを知っていたこと、そしていかにしてザ・ビートルズ、特にジョンと知り合うようになったのかについて熱っぽく語った。

「僕が初めて出会ったザ・ビートルズのレコードを覚えているよ。僕の友人であるマイケル・ジョンソンが学校に‘Love Me Do’を持ってきて、“このバンドは世界一になるよ”って言ったんだ。それを聴いて“すごくいい曲だな”と思ったんだけど、そのうちチャートにも登場するようになって、彼はザ・ビートルズのファンクラブの4番目の会員になったんだ」

本物のオリジナルだった

「それから彼らの人気は爆発的に広がっていった。彼らも、そして僕たちも皆、アメリカ人アーティストから影響を受けてはいたけど、ポップ・ミュージックに関して言えば、ザ・ビートルズこそイギリスから世界へ進出した初めてのバンドだったし、彼らは独自のサウンドを持っていた。リヴァプールやストロベリー・フィールズについて書いた曲もあって、本物のオリジナルだった。それからは、リヴァプールやイギリス北部からたくさんのバンドが出てきて、イギリスの素晴らしさが爆発して、僕らはみんな気分が良かったんだ。それになんと言っても曲の素晴らしさだよね。ザ・ビートルズのどのアルバムの収録曲を紐解いて考察してみても、その曲の良さにはただただ驚かされるんだ」

さらにエルトン・ジョンは、1967年のザ・ビートルズの金字塔的アルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」を彼が手に入れた時のエピソードについてショーン・レノンにこう明かしている。

「僕の家から最寄りのレコード・ショップまで8マイル(約13km) も自転車を走らせた。あのレコードは見開きジャケットだったから、傷がつかないように片手で脇に抱えて、もう一方の手で自転車を運転しなければならなかったんだよ」

その後、自身もアメリカへ進出し始めたエルトン・ジョンは、ザ・ビートルズが彼を応援していることに気づいたという。

「僕のファースト・アルバム“Elton John”が全米チャートに入った時、ジョージ(・ハリスン)から電報が届いて、とても興奮したよ。1973年に実際に彼らに会うまで、君のお父さんがそんなに(僕の)ファンでいてくれたとは知らなかったんだ」

畏敬の念を抱いていた

「君のお父さんに会った時、僕は少しばかり、というか明らかに畏敬の念を抱いていた。ザ・ビートルズの誰に会っても、彼らは皆、とても僕によくしてくれたけど、君のお父さんには他のメンバーにはない鋭さがあって、自分の考えを言うことを恐れていなかった。彼に会ったのは“Mind Games”のビデオ撮影の時で、僕の友人であるトニー・キングが女王役を演じていたんだ」

そしてエルトン・ジョンは、ジョン・レノンとの友情について息子のショーンにこう語った。

「僕たちには素晴らしい2~3年にわたる熱烈なロマンスがあって、あれは僕の人生においてとても重要な出来事だったんだよ、ショーン。本当に僕の助けになったし、僕に大きな自信を与えてくれた。君のお父さんの作品で演奏していると、急にエネルギーが漲るんだ……さもなくば僕は死んで天国に召されていたかもしれない。僕たちはトラブルに巻き込まれたり、巻き込まれそうになったことも何度かあったけど、汚ない言葉を使ったことは一度もなかったし、彼は優しかった。僕はジョンがそういう風になり得るのかもしれないって思っていた、というのも周りの人から“彼には気をつけなさい、人が変わることがあるから”って忠告されていて、もしかするとお酒を飲みすぎたりした時にそんな風になることもあったのかもしれないけど、僕自身は一度も彼のそんな姿を見たことがなかったよ」

一緒に笑い合った

「僕たちは、50年代と60年代の話や生まれ育った場所のことを語り合いながら大笑いしていたよ。2人ともイギリスの(BBCラジオのコメディで)“Round the Horne” っていうラジオ番組が好きで、好きな曲や嫌いな曲について話していた時も君のお父さんは知識の泉だった。そうして僕たちは本当に親密な関係になったんだけど、まさかそんなことが起こるなんて思ってもみなかったんだ」

エルトン・ジョンはアルバム『Walls and Bridges』でジョン・レノンと共演した全米No.1シングル「Whatever Gets You Thru The Night」についてもこう振り返っている。

「セッションに行ったのを覚えているよ。当時はトニー・キングがまだ君のお父さんと一緒に仕事をしていて、ジョンからこのレコードに演奏と歌で参加してくれないかって頼まれんだ。ジミー・アイオヴィンがエンジニアで、“Whatever Gets You Thru The Night”はその時すでに完成していたから、ピアノで参加するのは簡単だった。あの曲で一緒に演奏した人たちは素晴らしかった。サックスのボビー・キーズやドラムにはジム・ケルトナーもいて、君のお父さんがそれまでやったことのないような曲だったよ」

ショーン・レノンはこの曲について次のように応えた。

「実は、父の生誕80周年を記念したコンピレーション“GIMME SOME TRUTH. The Ultimate Mixes”(10月9日発売)に向けて、この曲のマルチトラックを聴く機会があったんですが、あなたのピアノはすごく刺激的でしたし、父もそれがカンフル剤になったみたいなことを言っていたと思います。だから父は(あなたのピアノが)この曲が本当に必要としていたエネルギーを与えてくれたと感じていたんだと思います」

エルトンはこの曲についてこう応えた。「でも、あの時のジョンはすでにリード・パートを録り終えていたんだ。僕はとても緊張していたけど、とても楽しかったし、素晴らしいトラックだった。だから僕は“なあ、これはNo.1シングルになるぞ”って言ったんだ。そしたら彼が“いやいや、これをシングルとして最初に出すつもりはない”って言って。でも確かキャピトルの人だったと思うんだけど、“そうだよ、これがシングルだ”って後押ししてくれて… 。そこで彼は“わかった。じゃあ1位を獲ったら君と一緒にステージで演奏しよう”って言ったんだ。彼は1位になるなんて微塵も思っていなかったみたいだけど、実際に1位になったんだ」

この一件がきっかけとなり、ジョン・レノンにとって生前最後のステージ・パフォーマンスとなった1974年11月28日にマディソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトン・ジョンのコンサートにジョン・レノンがゲスト出演を果たしたという有名な逸話が生まれた。当時のジョン・レノンについて、エルトン・ジョンはこう証言している。

「彼は怯えていたよ。彼はショウの前に体調を崩してしまって、すごく具合が悪そうだった。でもステージ前のリハーサルでは平気そうだったし、本番のステージでも全く問題なかった。1974年の感謝祭にマディソン・スクエア・ガーデンで行われたコンサートで彼が受けた歓迎はもの凄くて、あんな叫び声やどよめきを聞いたことがないくらいだった。今でも僕らはあの時のことを思い出して鳥肌が立つんだ。そして僕らの多くは感動して、涙を流していた。何故って史上最も偉大なバンドであるザ・ビートルズのひとりが、僕らと一緒に演奏してくれたんだ。コンサートが終わってから、ちょっとした打ち上げのためにピエール・ホテルに行って、僕のマネージャーだったジョン・リードと僕、そして君のお母さんとお父さんと一緒のテーブルに座ったんだ」

 

彼の人生は全く違うものになっていった

「その後、君が生まれてからは、君のお父さんの話を聞いたり、会ったりすることは全くなくなったんだけど、僕は気にしてはいなかった。何故なら彼は君のお母さん(ヨーコ)と復縁してとても幸せだったし、君という存在にすっかり心を奪われて、彼の人生は全く違うものになっていったんだ。あの夜が彼の人生の中でとても重要なものだったというその事実だけで、僕には十分だった。そして、ジョンが君のお母さんと復縁して、君が産まれた結果、僕が君の名付け親を依頼されたいう事実は、僕にとっては思い掛けない運命だったんだ」

エルトン・ジョンはまた、感謝祭に開催したニューヨーク公演の数ヶ月前に、ザ・ビートルズの名曲をレコーディングするためにカリブー・スタジオに行くことになった経緯についてこう説明した。

「僕らは一緒にアルバムを作っていたんだけど、当時の僕は “Philadelphia Freedom”とか、別のシングルも手掛けていたんだ。それで、君のお父さんに“君の曲を1曲録音してみたい。どの曲をやったらいいと思う?”って訊いたら、“みんなが僕たちの曲をカヴァーしているから、もうすでにたくさんのヴァージョンが存在してるんだけど、まだ誰も‘Lucy In The Sky With Diamonds’ をやったことがないんだ”って彼が言うから、僕は“よし、それだ。それをやろう”と言ったんだ」

ジョン・レノン殺害後、エルトン・ジョンとバーニー・トーピンが衝動にかられるがままに書いた気品高く感動的な「Empty Garden」は、彼らの友情への胸を刺すような追伸となった。

「あの曲はどうしても書きたかったんだ。君のお父さんが亡くなったというニュースを聞いた時、オーストラリアのブリスベンからメルボルンへ向かう飛行機に乗っていたんだけど、僕らは飛行機の中にいるように言われて、僕はてっきり祖母が亡くなったのだと思っていた。それからジョンのことを聞かされた時、誰ひとりそれを信じることができなかった。それでもメルボルンの大聖堂で葬儀を計画したんだ。ニューヨークで行われていた葬儀と同時進行で、僕たちは立ち上がり、賛美歌を歌い、彼へ賛辞を送った。何故って、僕は、他の皆と同じように、君のお父さんの死にとてつもなく大きな衝撃を受けていたから。とにかく信じられなかった。健康上の問題なんてなかったのに、酷い殺人によって亡くなってしまうなんて」

彼は人々のまとめ役だった

最後にエルトン・ジョンは、ジョン・レノンが今生きていたら何をしていたか、そして彼が自身の人生に与えた影響についてこう語った。

「もし君のお父さんが生きていたら、間違いなくノーベル平和賞か何かを受賞していたと思うよ。君のお父さんは、人々を一つにしたいと思っていた。彼は人々のまとめ役として、自分の主張が何であるかを理解してもらうために、どんなことでもする覚悟を持っていたんだ。多くの人が彼の思想に嫌悪感を抱いていたし、FBIのように多くの人が彼に厳しい目を向けていたけれど、誰も彼を止めることはできなかった」

「ただ、君が生まれたことで、彼はずいぶんと落ち着いて、最初の子供であるジュリアンの時にはできなかった、自分の子供と過ごす時間を満喫していたから、君のお母さんの元に戻って、家族一緒の生活を送ることで、彼自身がずっと丸くなっていったのだと思うよ。彼はこの世に存在し、そして去ってしまったけれど、彼がこの世にいた時には多くの人々に多大な影響と刺激を与え、そして多くの人々を愛していた。そんな彼が恋しいよ。今日では彼のような個性や人間性を持った人物はあまりいなくなってしまい、彼がこの世にいてくれたらと思うよ。まさに君がそう願うように、僕たちもそう願っているんだ」

Written By Paul Sexton

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ジョン・レノン『GIMME SOME TRUTH.』
2020年10月9日発売

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