中島宏著『クリスト・レイ』第54話

©Nikkey Shimbun

 個人的な感情をそこに投入するのは、いささか常識から外れているようにも思われるのだが、彼にとっては、これらのすべてが互いに繋がっているというふうに考えているから、そこに矛盾はない。ここにある隠れキリシタンの物語はそのまま、アヤの人間性にも繋がっているはずだし、それを知ることによってもっと、彼女の内面を窺い知ることもできるのではないか。マルコスの思考は、そのようなところにまで及んでいる。
 今、目の前にあるものを探って行けば結局それは、アヤの持っている思想の奥深くまで入り込んで行けることになる。そして、そのことについてマルコスは、決して行き過ぎだとも失礼だとも考えていない。すごく当然なことではないかというような感じを持っている。そこには遠慮とか、常識的な発想というものは存在しない。それだけマルコスは、すでに常識の範疇からはみ出してしまっているのかもしれなかった。もっとも、それが青春というものの持つ特権とも呼べるものなのであろう。

 マルコスとアヤとの会話は、その後もずっと続いていった。
 ただ、新しい教会の工事が進むにつれて、現場でボランティアとして働く人々も増えていったから、教会や日本語学校の近くでは二人だけで会うことはできなくなった。できれば二人の行動は、目立たないようにする方が賢明であった。別に後ろめたいことをしているわけではなかったが、かといって表立って強調するようなことでもなかった。
 もっとも、出会うとはいうもののこの場合、話題はクリスト・レイ教会に関することや、日本語に関するものが中心となっていたから、本来の意味でのデートとはかなりその趣が異なるものではあったのだが。
 あえていえばそれは、専門化した分野での勉強会というような形を持つものであった。が、その実、純然たる勉強だけがその目的であったかといえば、それもまた違うと言わざるを得ない。その辺りが、いわゆる本来の意味での勉強会とは異なるものであったのは事実である。複雑な意味を内包するものではあったが、とにかく二人は勉強会と称しつつ、デートの形を持ちながら、教会について、宗教について、歴史について、そして日本人の考え方について様々な議論を繰り広げていった。そして回を重ねるごとに、その内容も充実したものになっていった。
 そこにあったものは、青春の一ページを司るといった雰囲気のものであり、未熟なりにも思考の広がりと、新たな組み立てと、そして、それらを直接ぶつけあうことによる議論であった。それは、決して確かな形を持つものではなかったが、明らかにそこには、若さのみが持つ躍動感がみなぎっていた。
 出会う場所は、いろいろ変わった。
 時には、低地に流れる小川のほとりであったり、コーヒー畑の中の小道であったり、牧場の並木道であったり、マルコスの家だったりした。デートのために彼は時折り、シャレッチと称する二輪馬車を用意し、それに乗って来たりした。馬車とはいっても別に立派なものではなく、一頭の馬に簡単な二輪車を引っ張らせるという、ブラジルではごく一般に、足代わりに使われていた簡易馬車ともいうべき乗り物である。