『日没』桐野夏生著 自由が霧散する怖さ、止まらない

 幾つもの意味で怖い小説だ。胸に重く残るこの読後感は、今の時代に広く共有されていい。読み始めると、きっと止まらない。

 40代の女性作家マッツ夢井は突然、国の「文化文芸倫理向上委員会」、略称ブンリンなる組織に召喚され、孤絶した海辺の「療養所」に閉じ込められる。なぜか。マッツの小説が社会に害を与えるため「研修」を受けさせるという。療養所にはブンリンが正しくないとみなした作家たちが収容されている。外部との連絡もままならず食事時間も監視下に置かれ、療養所の職員たちは狡猾で暴力的。昨日まで疑いもしなかった自由が霧散した。マッツは立ち向かうのか、崩れていくのか。

 国家が表現の自由を奪う。オーウェル「1984」などと同じくディストピア小説と呼べる作品である。作中の国でブンリンはきちんと法律に位置付けられている。文学は人間のいやな部分も掘り下げて読者に差し出す。そこに「正しい」も「悪い」もない。だが都合の悪い表現や人物を排除しようという権力が、あらゆる機会を捉えて規制をかけてくることを思えば、本作の迫真力はとてつもなく強い。

 あらゆる表現の自由は、意識して守らなければ範囲が狭まっていく。これは本作を読んで想起した怖さの一つ。身の回りにある文学、美術、音楽、演劇、映画はどうだろう。私たちはもっと敏感になるべきだと考えさせられた。

 読後の怖さはまだある。ブンリンによる作家選別の背後には、それを肯い、告発する読者がいる。一方的な正しさの強制と排除にくみする市井の人々が、桐野の描く国家を支えている。作品の世界と私たちが暮らす世界の差は、今、どれだけあるのだろう。

慄然としたままでは権力の思うつぼかもしれないが、異変を察知する意味はあるはずだ。本作はその感覚を刺激してくれる。最も怖いのは何も感じなくなることだろう。

 力を持つ側が意に染まない者を抑圧するのは、国家と個人の間だけでなく、現実のさまざまな組織、コミュニティでも起こる。常識という名の圧力、冷笑的な態度、何もしないという形での同調。複数の集団に属していれば、排除する側、される側のどちらにもなり得る。本書を閉じた後、その自覚が頭をもたげ、ぞっとした。

(岩波書店 1800円+税)=杉本新

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