里山に息づく命の感触 「山と獣と肉と皮」刊行  長崎市の写真家 繁延あづささん

「当たり前だと思っていたことが覆されたり、別の目線をもらったりすることも山の魅力です」と話す繁延さん=長崎新聞社

 「かわいそう」と「おいしそう」の境界はどこにあるのか?-。長崎市の写真家、繁延あづささんの新著「山と獣と肉と皮」(亜紀書房)は、長崎市と佐賀の里山で繰り広げられる猟師と獣との生死を巡る営みを追ったルポ。鮮烈な写真と文章で山に息づく命の感触を生々しく伝え、冒頭の問いを突きつける。

 著者の繁延さんが、初めて猪(いのしし)の猟に同行したのは2016年の冬。早朝5時半、近所に住む“猟師のおじさん”から「箱わなに猪のかかっとるけん、くるか?」と電話が入る。「行きます!」と即答し、カメラのバッテリーがフル充電されていることを確かめ、家を飛び出した。
 現場に着くと、猪がおりの中で、たけだけしい声をあげながら死に物狂いで暴れていた。それを見て「とてつもなく生きている」と思う。と同時に胸がざわめく。「これほどまでに生きようとしている猪を、これから殺すのだ。“死など絶対に受け入れない”とばかりに、目を剥(む)き、いななき、怒るこの猪を」。やがて、心臓をやりでひと突きされ、あっけなくごろりと横たわる。鮮やかな「生と死のコントラスト」に圧倒される。
 おじさんは少し前に、括(くく)りわなにかかった猪に逆襲され、大けがをしていた。山での獣との戦いは、人間にとっても常に死と隣り合わせの真剣勝負だ。

「山と獣と肉と皮」より

●おいしく食べる

 息絶えた猪がナイフで切り開かれ、ぼたん色の肉と白い脂肪がのぞくと、途端に「おいしそう」という感情が湧き上がる。「絶対おいしく食べてやる」と心に決め、最適の料理法を考える。
 ある日、わなにかかり仕留められた鹿のおなかから胎児が出てきた。死んでいたが、すでに鹿(か)の子模様もあった。
 「猟に同行して一番つらいのは死の瞬間。私にとって鹿の胎児は衝撃的だった。でも、おじさんにすれば、この時期の鹿は大抵そうよねという感じ。当たり前なんだなと思った」と繁延さん。
 おじさんは、害獣駆除の要請を受け猟をしている。猪や鹿を哀れめば、残酷でもある。しかし、獣と人の命はひと連なりであることをルポは伝える。身近な里山での出来事は、命を頂くことも含め、自然の中での営み。それは古来の神話や民話の世界につながることに、改めて気づかされる。
 もう1人、繁延さんが追うのは、犬と銃で猟をする佐賀県の猟師“中村さん”。そこでは、また違った狩猟風景が広がる。

「山と獣と肉と皮」の表紙

●「穢れ」との符号

 繁延さんは山で獣たちの死を見つめ、猟師に分けてもらった肉を食べる生活を送る中、民俗学者、赤坂憲雄氏の一文と出会う。そこには「穢(けが)れとは何か。人の死にまつわる穢れがあり、女性の月経・出産にかかわる穢れがあり、そして獣の肉や皮革処理がもたらす穢れがある」と書かれていた。自分が撮影してきた出産、死、肉。意識したことはないが、それらは赤坂氏がいう「穢れ」と符合していた。赤坂氏のいう穢れの中で、まだ直に触れていないのは皮革だけ。そこで、故郷の姫路に古来伝わる皮革の技術「白鞣(なめ)し」の職人を訪ね、獣の皮が革に変わる過程とその意味を探る。穢れとは何か、なぜ穢れなのかを知るために。
 「この本を書いたのは、私の体験を読者と共有できたらとの思いから。そのうち失われていくであろうこの新鮮な感覚を残しておきたかった」
 「山と獣と肉と皮」は、四六判、240ページ。1760円。

 【略歴】しげのぶ・あづさ 1977年、兵庫県姫路市生まれ。2011年に長崎市の風土に魅了され、東京都から家族と共に移住。夫と3人の子どもと暮らす。雑誌などで連載を持つ傍ら、ライフワークとして出産や家族、狩猟の写真を撮り続けている。主な著書に「うまれるものがたり」「長崎と天草の教会を旅して」(いずれもマイナビ出版)など。「うまれるものがたり」は中学2年の道徳の教科書(光村図書)に掲載された。

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