その名も “シンデレラ” ハードロックらしからぬバンド名がもたらした幸運と悲劇 1986年 8月2日 シンデレラのファーストアルバム「ナイト・ソングス」が米国でリリースされた日

ボン・ジョヴィからのお墨付き、“シンデレラストーリー” 開幕!

“名は体を表す” というが、シンデレラのデビューからの快進撃は、まさに “シンデレラストーリー” そのものであり、図らずもバンド名を見事に体現していた。

フィラデルフィアをベースに活動していた、シンデレラのライヴを偶然見たのが、のちにスーパースターへの階段を昇っていくジョン・ボン・ジョヴィだった。

シンデレラ、そしてトム・キーファーの才能を見出し、手を差し伸べたジョンの尽力で、シンデレラはメジャーディールを獲得していく。時は80s HM/HRバブルの、まさに渦中の時期。最高のタイミングで、シンデレラはシーンに打って出たることになった。

全米3位の快進撃、ファーストアルバム「ナイト・ソングス」

ファーストアルバム『ナイト・ソングス』は、LAメタル特有の煌びやかな匂いを残しつつ、AC/DCやエアロスミスといった、ハードロックンロールの先人達のテイストを絶妙に散りばめた充実作となった。

舞踏会のシンデレラの如く(実際にはむさ苦しい男のハードロッカー達だったけど)、華やかなコスチュームに身を包んだ、盛り盛りヘアスタイルのメンバー4人が立ち並ぶジャケットデザインは、今見るとお世辞にもクールとは言い難いが(失礼!)、これ以上ないほどに、80年代のテイストを放散させていた。

『ナイト・ソングス』は、新たなHM/HRヒーローを渇望してやまない、シーンのど真ん中を射抜くかのように大ヒット。デビュー作にもかかわらず、1987年2月には、全米チャートの3位まで昇り詰め、300万枚のセールスと、出来過ぎとも言える成功を納めたのだった。

全米のメタルムーブメントに敏感な、ここ日本でもシンデレラは紹介されるや、早々に話題を集めた。特に非凡なルックスのおかげで、多くの女性ファンを獲得し、人気者となっていく。当時日本のメタルファンで、シンデレラを一度も聴いていない人は、恐らくいなかっただろう。“シンデレラストーリー” は世界へと広がっていったのだ。

翌年には早くも来日公演、「夜のヒットスタジオ」にも生出演

そして日本のラウドネスの全米ツアーや、ボン・ジョヴィの『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ(Slippery When Wet)』に伴う全米ツアーのサポートアクト等を務めながら、デビュー翌年には、早くも初来日公演が実現した。

この来日時に、シンデレラはTV番組『夜のヒットスタジオ』に生出演している。「サムバディ・セイヴ・ミー」を当て振りで演奏したのだが、いかにも当時のTVの演出らしく、司会の古舘伊知郎がバンドの演奏そっちのけで、懸命に前振りしたのが、ジェフ・ラバーとエリック・ブリッティンガムによる、ギターとベースの “同時ネック回し” のパフォーマンスだった。ちなみに日系アメリカ人のジェフは、その放送時に日本人のお婆さんがゲストで登場したのも、テレビらしい演出だった。

このパフォーマンスは、シンデレラのPVでも披露されていたが、ありそうでなかった曲芸的な動きが、バカバカしくも面白い。曲中の至るところで目にも留まらぬ速さで、ストラップをつけたままのギターとベースをグルンと回す。

僕もそうだったけど、このシンデレラのTV出演以降、日本中のメタルバンドマン達がこれを早速真似たのだった(多分、いや間違いない)。中には、回し損ねて大事な愛器のネックやヘッドを損傷し、涙を飲んだ人もいたであろう。ちなみに、日本のSHOW-YAのメンバーも、このパフォーマンスを当時丸パクリして、見事な勢いでブン回していた。

前作と大きく異なるセカンド、強まるトム・キーファーのブルース指向

いきなりデビューからの大成功で、誰もが期待したセカンドアルバムは、1988年にリリースされた。『ロング・コールド・ウインター』とタイトルされたこの作品が、ファーストと大きく異なる方向性であることは、冒頭のブルージーなギターフレーズを聴いただけで予感できた。

レコーディングドラマーとして、かのコージー・パウエルを密かに迎えたアルバムは、バンドの成長を示すだけでなく、LAメタル的な派手さは鳴りを潜め、よりブルーステイストを全面に推し出した、本格派のハードロックへとシフトしていた。それは、中心人物であるトム・キーファーが本来持つ音楽的なルーツを隠さずに、シンデレラの音楽性に反映し始めた結果だった。

白地にバンドロゴとタイトルだけが書かれた、シンプルなジャケットデザインは、デビュー作のイメージを全て払拭し、ここから俺たちがやりたい音楽をスタートさせる、そんな信念を感じさせるものだった。

とはいえ、完全にブルース一色というわけでなく、ハードロックアルバムとしてのバランスに優れており、彼らの最高傑作と呼べる力作となった。結果、ファーストには届かなかったものの、セールス的にも再び成功を収めた。

アルバムに伴うツアーは、『モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル』への出演等も含め、実に世界で250公演以上に及んだ。その一環となった2回目の来日公演で、僕もようやく彼らのライヴを体験した。その時思ったのは、シンデレラはバンドであっても、トム・キーファーという個のアーティストの存在感が、圧倒的過ぎることだった。

しゃがれたハイトーンヴォイスで、魂を込めて振り絞るように歌う、唯一無二と言えるトムのヴォーカル力は絶大で、身震いするほどだったし、ギタリストとしての非凡な魅力も存分に感じられた。そうして、トムが卓越したパフォーマンスを見せれば見せるほどに、デビュー時のようなメンバー横並びの図式ではなく、良くも悪くも、トム・キーファーとそのバックバンド、そういう風に見えて仕方がなかったのだ。

バンドの名前と音楽性の乖離、たかがバンド名、されどバンド名…

サードアルバム『ハートブレイク・ステーション』では、さらに自身のルーツを追求するかのように、ブルース色を強めたアーシーなテイストのロックを展開。もはや、デビュー時にあった、ヘヴィメタル的な要素すら微塵も感じられなくなった。

そして、デビュー時にはドンピシャに思えた、“シンデレラ” というキラキラネーミングも、お伽話の夢から冷めてしまったかのように、トムが目指す音楽性には、どこか似合わないものになっていった。

たかがバンド名、されどバンド名である。例えば、若気の至りで名付けたバンド名が、音楽性の変化や時代背景の移り変わりの中で、似合わなくなってしまうこともあるだろう。バンド名 “シンデレラ” は、まさにそんな状況に陥ったように思えたのだ。

その後、トムは声帯の手術に見舞われるが、1994年には、さらにブルーステイストを追求し、遂にはバンドロゴも封印した4作目『スティル・クライミング』をリリース。けれども、グランジ禍でチャートは不調に終わり、メジャー契約も切られ、1995年には活動休止に追い込まれた。

呪縛からの解放? 2019年にリリースされたトム・キーファーのソロ

結局、1997年にシンデレラとして活動を復活させたものの、様々な事象に見舞われライヴ活動を散発的に行うに過ぎなかった。僕はレコード会社時代に、シンデレラのライヴアルバムを1枚、日本盤でリリースしたことがある。これが5枚目のスタジオ作の足がかりにならないかと模索したけど、容易ではないことを悟ったし、今に至るまでそれは実現していない。

シンデレラ名義での活動がもし足枷なら、ボン・ジョヴィではないが、いっそのこと「キーファー」とか、自身の名を冠したバンド名で活動したらいいんじゃないか、と僕は思っていた。

そんな矢先、実質トムのソロ作だけど、“TOM#KEIFERBAND” の名を記した作品を、2019年にリリースした。あまりにも大きな存在であった、シンデレラの呪縛から解き放たれることは、トムが自身の音楽を追求していく上で、むしろ正しい道であると思えるのだ。

80年代の喧騒の中で、HM/HRが燦然と輝いていた時代に、シンデレラは間違いなく、そのコアの一部分を担っていた。バンド名に相応しく、シンデレラが80年代という時代の中心で躍動していた事実は、決して忘れたくないのだ。

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カタリベ: 中塚一晶

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