甲子園の名将2人が球児に伝え続けたこと 被爆から75年、選手とともに捧げた祈り

優勝旗を手にした迫田穆成主将を先頭に場内を1周する広島商ナイン=1957年

 新型コロナウイルスの感染が世界中に広がった2020年、国民的人気を誇る高校野球の甲子園大会も春夏ともに中止に追い込まれた。いずれも開催されないのは、太平洋戦争の最中だった1945年以来のことだ。終戦から75年。広島では今も、幼い頃に原爆を経験した80代の指導者2人がグラウンドに立ち、高校生や大学生に野球を教えている。迫田穆成さん(81)と三原新二郎さん(80)。60歳ほども離れた、戦争を知らない世代に平和の尊さを伝えながら。(共同通信=徳永太郎)

 ▽原爆の傷痕の中で育った野球少年

 「プロ野球で目標の外野手は誰や? 鈴木誠也か? 丸か?」。原爆の日を目前にした8月の厳しい暑さの下、広島県竹原市のグラウンドに迫田さんの声が響いた。県立広島商業高(広島市)や私立如水館高(広島県三原市)を何度も甲子園に導いた名将が昨年夏、県立竹原高の監督に就任した。

 1945年8月6日、広島市西部の自宅で、妊娠中の母と、弟2人と共に被爆した。黒い雨が降る中、布団をかぶって逃げた。市内中心部で勤労奉仕をしていた父や、作業していた姉は何とか助かったが、2歳の弟が翌日、亡くなった。

 終戦から間もない小学1年の正月、年上の友人に誘われ、テニスボールで野球をした。アウトが取れず、泣きながらプレーを続けたのが最初の思い出だ。まだ貧しい時代。家業の洋服店にある綿や生地でビー玉を包んでボールにし、布を合わせてグラブを作り、野球に夢中になった。中学までに、元気だった同級生2人が相次いで死んだ。原爆の影響だった。「いつ病気になるか分からん」という不安が消えなくなった。

部員を指導する迫田穆成さん=8月

 監督として2度、夏の甲子園準優勝を経験し、今は広島文化学園大(広島県呉市)で指導する三原さんも被爆者だ。友人の家の玄関先で、いきなり目の前が真っ白になった。爆風で飛ばされたが、よく覚えていない。友人家族と逃げた橋の下で、裸の人が「水をくれ」とうめき、川に流されていくのを見た。

 幸い自身の家族は全員無事。自宅は傾いて、ふすまは閉まらなかったが住むことはできた。そんな三原さんも小学校で野球と出合い、迫田さんと白球を追った仲だ。

 2人とも県内の強豪校へ。迫田さんは戦前、春夏の甲子園で4回優勝した広島商。三原さんは春の甲子園で1回優勝した私立広陵高に進んだ。

部員を指導する三原新二郎さん=8月

 ▽被爆地元気づけた高校野球と市民球場

 原爆投下から12年がたった1957年夏。3年生の迫田さんは主将を務め、甲子園で全国制覇を果たした。急行「安芸」で広島に凱旋(がいせん)すると、大勢の市民が出迎えてくれた。街中が歓喜に沸いた。迫田さんらの優勝は復興が進む広島を元気づけた。

 その年の7月、被爆の象徴である原爆ドームの向かいに、約5カ月の突貫工事で、球場が完成した。プロ野球広島カープの新本拠地となった旧広島市民球場だった。

 「市民球団」カープがセ・リーグに参戦したのは50年。資金難による解散危機がすぐに訪れ、成績も低迷した。そんな中、当時の本拠地・広島総合球場に四斗だるが置かれ「たる募金」が始まった。「10円札か何か、お金を入れたのを覚えている」と振り返る三原さん。地元企業の寄付を集めて建設にこぎ着けた「新球場」は、復興の象徴的存在となった。

半世紀ぶりに復活したたる募金=2004年

 ナイター設備を備えたこの球場は、アマチュアにも広く門戸を開いた。広陵の選手だった三原さんは、完成間もない球場の土を広島商との定期戦で踏んだ。「総合球場とは全然違う。試合できるのが、うれしかった」。後身のマツダスタジアムにその座を譲るまで約半世紀にわたり、プロだけでなく高校、大学、社会人にも多用され、広島野球界の「聖地」であり続けた。

 ▽あの日の惨状、今も胸に指導

 迫田さんと三原さんはその後、ともに高校野球の指導者になった。三原さんはまだ20代の青年監督として母校を率いた67年、夏の甲子園で40年ぶりに決勝に進んだ。惜しくも習志野高(千葉)に敗れたが「古豪復活」を印象づけた。

 迫田さんは73年、広島商監督として春の甲子園大会で「怪物」江川卓投手(元巨人)を擁する作新学院高(栃木)を破って大きな話題を呼び、準優勝。同年夏には、自身の選手時代以来となる16年ぶりに夏の甲子園優勝を果たした。

 高校野球の名将になった2人。だが毎年、8月6日にはあの日の惨状が頭をよぎる。

 迫田さんは甲子園に出場すると、広島の方角を向いて選手と目を閉じる。「本当は静かに線香を上げたいけど、子どもにも教えないといかん」。広島代表として犠牲者に祈りをささげてきた。

胴上げされる京都外大西の三原新二郎監督(当時)=2005年

 母校の監督を退いた後、福井や京都で高校球児を指導した三原さんも、練習前に選手たちと黙とう。新学期最初の授業では自らの被爆体験を語ってきた。「原爆の話をすると、みんな真剣に聞いてくれた」

 被爆から75年。迫田さんは言う。「原爆が落ちたことは変えられない。生かしてもらい、野球をさせてもらった。そのことに感謝し続けている」

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さこだ・よしあき 1939年生まれ。母校広島商の監督として、73年春の甲子園で準優勝、夏の甲子園で優勝。93年に如水館の前身三原工業高の監督に就任。2019年春に退くまで、如水館を春夏計8度、甲子園出場に導いた。教え子に達川光男・元広島カープ監督ら。

みはら・しんじろう 1940年生まれ。母校広陵の監督として、67年夏の甲子園準優勝。福井工大福井高(福井)の監督を経て、京都西高(京都、現京都外大西高)の監督に。2005年夏、京都外大西を甲子園決勝に導いたが、田中将大投手(現ヤンキース)を擁する駒大苫小牧高(北海道)に敗れた。教え子に大野雄大投手(中日)ら。

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